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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

非専門家による「ニセ科学批判」批判

どうもここのところ「ニセ科学批判」批判についてのエントリが続いた。まぁそれは専門家によるものだったり、論宅さんのように学術的なスタンスを明示したものだったりしたのだけど、実は「ニセ科学批判」批判はぼくのような「普通のひと」発のものもある。ちょっとその例として、無度。も度。高度さんの 「水からの伝言」への批判が増えてますと云うエントリに言及してみる。ややまとめっぽく。

最近は、amebloとか楽天とかで結構見受けられる「ニセ科学信じちゃおうかなぁo(*^^*)o系ブログ」はあまり取り上げない。それはなんと云うかどれも書いてある内容が同じであんまり取り上げても参考にならない(と云うかからかうような書き方しかできなくて面白くならない)からなんだけど、目にすることはある。
そうすると、そう云う方々も最近は「ニセ科学には批判が存在する」ことはご存知のケースが増えている、と云うのに気付く。

「ひとの身体の70%は水だからぁ〜〜(#^.^#)
いろいろ批判があったりもするけどぉ〜〜α~ (ー.ー")
ぁやかは信じるほうがステキだと思います!!!!(≧∇≦)/ 」
みたいな(ぁやかってだれだ)。

これってまぁ、「ネット上に対抗言論を置く」と云うやり方が、多少でも効果を上げている、と云うふうに考えてもいいのかな、なんて思う。

ただ、当然ながら「対抗言論の対抗言論」みたいなのも、ぼくたち非専門家レベルでも出てくるわけで。でも今回取り上げる無度。も度。高度さん(これがハンドルネームらしい)の例に典型的に見られるのだけれど、傾向として「特に調べたりしないで書いている」と云うのが見られる。

 科学的に在り得ないと言うのがお決まりの論調です。

いきなりである。で、これは単純に事実誤認で。「科学的にありえない」と云う論調を排除して別の立場から批判を行ったものとしては、中国文学者である朴斎先生の水に芸術はわからない言語学の研究者であるdlitさんによる「水からの伝言」に言語学の立場から反論する、アーティストであるcorvoさんの「水からの伝言」って何だから始まる一連のエントリなど、それぞれの職能上の知見に基づく、自然科学的な視点以外からの(とは云えもちろん非科学的ではない)良質な論考が存在する。

ありがとう、の言葉で水の結晶が変わるかどうかを追試しないでの批判です。

追試が不要な理由としてもっとも簡潔にまとまっているのは田崎教授の「水からの伝言」を信じないでくださいのなかにある「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?の項が多分いちばん。

権威ある人の言葉はデータ無しでも受け入れるメディアの姿勢はロクなもんじゃありません。

これはほとんど事実に即していなくて。いろんな科学者の方々の批判はそれが「権威があるから」マスメディアに扱われているわけじゃない。そんなことが簡単にできるんだったら、科学者の方々は「マスメディア経由のニセ科学の伝播の阻止」をもっと効率的に進めているはず。

江本氏の「水からの伝言」は世界に衝撃を持って受け入れられました。

データがキチント揃えてあるからです。

ただ、傾向 をそのままではなくキレイにまとめ過ぎた感はありますが。。。

科学的に実証された、と云えるだけのデータが揃っていない、と云うか実験の条件からデータとしての評価はできない、と云うのは多くの科学者の方が述べているとおり。

公の実験でも証明が為されてます。

まず「公の実験」ってなんだろう。
で、実験結果がもし公的に評価されているのだとすれば、もう科学者の方々は批判そのものができなくなってしまうのだけれど(科学と云うのはそう云うものだ)。批判が存在すること自体が「認められていない」証拠で。

科学的ではない。。。コレはオールド・サイエンスがちがちの立場の科学者の批判であり、ニュー・サイエンスの立場からは、当たり前とされているのです。

ニュー・サイエンスってなんだろう(ぐぐったけどよく分からなかった。還元主義的発想を押し進めた科学的スタンス、って云うのがあったけどそれは違うだろうし、あとはサプリメント屋さんが見つかっただけ)。なんとなくニューエイジ的なものをイメージされているように見受けられるけど、だとすれば随分古くさい話をするものだなぁ。で、その「当たり前とされている」と云うのは「科学的に正当なことだとされている」と云う意味なんだろうか。残念ながら科学的な事実と云うのは、「ある立場では正当だけどある立場では批判されるべき」ものだったりはしないんだけど(誤解されそうな言い回しなので追記:もちろん「ある科学的事実が特定の立場からは重要な要素だけれど別の立場からはそうでもない」と云うようなことはある。事実は事実でしかないので)。

これからの科学は波動科学に移行せねばなりません。

なんで? 「科学が移行する」ってどういうこと?

<電子は粒子ではなく、波動なのです> このプレアデス・メッセージが降ろされてから10年が経ち、ようやく大きなうねりとなって来つつありますが、まだ権威の座にアグラをかく人には縁がないようです。

この「プレアデス・メッセージ」ってのは論文か何かなんだろうか。論文ってのは普通発表されるもので、「降ろされる」ものではないと思うのだけれど。あと、権威の座にアグラをかく人ってだれのことだ。

波動科学の立場からは、全てのものが影響しあってるというのが、共通認識です。

だから波動科学ってなんだ。と云うか、全てのものが影響しあってると云うのは別に特別な認識じゃなくて、影響力の大小はあれ普通の科学も同じだと思うんだけど。

水からの伝言」を認めない科学者は霊魂の存在も認めないでしょう。

科学の世界も、はっきりと〜分化が進んでるようです。

これは「霊魂」をどう定義するかにもよるだろうし、脳科学の一部はそこに踏み込んでいっているのではないか、と云うのがぼくの認識だったんだけれど。あと、科学の世界はひとつなので、分化したりはしない(もちろんそのなかでの立場の対立なんかはある)。科学から分化していったものは科学ではないので、それが科学を自称すれば多分「ニセ科学」と呼ばれることになる。

「権威をもって語る人の言葉には気をつけましょう!

江本氏も、最近は権威が増え過ぎてるようですが。。。

いや、権威はないですよ。わざわざ外国のニセ大学(ディプロマミル)からニセ博士号を買って来ているくらいですから。権威があればわざわざお金を出せば入手できるような学位は名乗らないでしょう。

とまぁここまで、できるだけぼく自身が自分で積み重ねて来た「非専門家の素人による」思索にもとづくことなく、ネット上でふつうに触れられる論考をもとに「ニセ科学批判批判批判」(もう訳わからん)をしてみた。なんと云うのか、要するに「批判はしたいんだけど考えたり調べたりするのは嫌だ」と云うことがやっぱり透けて見えることであるなぁ。