冒涜がまたひとつ
坂井泉さんの『水はことばの鏡』と云うエントリを読んだ。この本は要するに「水伝4」
で、この方は編集者として携わっておられたようだ。
信じる信じないは、あなたしだい。
書籍をつくっている側からこのようにおっしゃっている。つまるところ、提供しているものを「事実」だと思ったり「真実」だと考えたりするのは受け止める側の自己責任で、提供する側は免責される、と云う表明のようだ。
「ニセ科学」だの「インチキ」だのと言う人がいます。
実はぼくも当初、友だちのやることにケチはつけたいとは思いませんでしたが、正直「眉唾物」と思っていました。
しかし彼の人柄から言って、ごまかしたり嘘をついたりするとは思えなかったので、ふつうに「ああ、こういうものもあるんだ」という程度に思っていました。
担保は「人柄」ですか。そりゃなんとも確実な担保ですこと。善意の有無を推測してものごとの真贋を判断するのと同じくらい確実ですね。
しかし、水を凍らせて顕微鏡で結晶を見ると、ほんとうにこの通りの結果になるのですから驚きます。
その証拠に、悪い言葉を見せると、どうやっても、何回やっても結晶になりません。
なぜ、そういう結果が出るのかと言うと、
わかりません。
わからないものに意味づけするなよ。
と云うか、ここで坂井泉さんがお書きのことは、ぼくの知っている「水からの伝言」関連の主張と相違していると思うのだがどうか。「水からの伝言」では、綺麗に出来た結晶をセレクトしているはずだと思ったのだけれど。
あ、そうか。その証拠に、悪い言葉を見せると、どうやっても、何回やっても結晶になりません。
と云う部分が鍵なのだな(その証拠に
もなにも、この主張ではなんの証拠にもならない)。
江本さんはじめスタッフも、科学的な立証の元にやってるわけではありません。
これは科学なのか、と問うと、当の江本氏は「これはポエムです。科学ではないですよ」
科学ではないと言っているものを、「ニセ科学」とはこれいかに。
絵に描いたお札を見て「偽札だ」と騒ぐようなもんですね。
この比喩に乗ると江本氏の主張は絵に描いたお札
について「これは現代の経済がまだ未発達だから認められていないだけで、いつかはちゃんと流通する」と云うことになるわけで(参考:kikulog「AERAに批判記事が出ます」)。絵に描いたお札
はお札じゃない、とか云うと、多分「財務省至上主義だ」とか云う反発が来る、と云うシナリオができあがる。やれやれ。
江本氏は、「悪い言葉は世界を悪くする、よい言葉は世界を美しくする。戦争などの争いごとは、悪い言葉の投げ合いから始まる」と言います。
そのとおり。
べつにそのとおりではないと思いますが。と云うか、それは誰がどう見ても戦争と云うものを単純化しすぎ、と云うか根拠不明の紋切型に押し込めすぎ。
個人的に一番許容しがたかったのはこの部分。
これは、ゲバラの演説を聴かせた水の結晶写真。最初の方と終りの方では結晶が変わっています。
チェと云う一個の複雑で、多面的で、巨大な人格を、こんな一面的で底の浅いやり口で切り取ることができるなんて思い込めるような傲慢さを、ひとはどうすれば持ちうるのだろう。