表現者・アスリート・「国民的ヒロイン」
浅田真央の引退については、あまり残念だった、と云う気持ちはない。これは、ぼくが彼女のことを(いろいろなひとが感じているらしいような)悲運の選手だった、みたいにはあまり思っていないことも関係しているのかもしれない。どんな偉大なアスリートにも、競技場を離れる時は訪れる。
こんな記事を読んだ。読んだのを後悔するような記事ではあるけれど、まぁいろいろなものが見えてくる。
まぁ終始、自分の立脚点をネット上でも
とか世間で
とか主語を拡大しながら述べているだけではあるのだけれど。
引退時の扱いで2人に「差」が生じた理由はハッキリしている。メディア報道に助長される形で「浅田選手=ベビーフェース」「安藤さん=ヒール」のイメージが世間に浸透しているからだ。
この文章を文章を当のメディア報道
に携わる人間が記している、と云うあたりの面の皮の厚さは相当なもんだ、と思う。
選手に対する好き嫌い、と云うのはだいたいだれにでもふつうにあって、それはその選手を評価する・しない、と云うこととは概ねちょっと違った次元で。好きになれなくても認めざるを得ない選手がいたり、好きな選手の実力不足を否定できなかったり、みたいな葛藤は、あるスポーツのファンなら一般的に起きること、だと思う。たぶん、好き嫌いによって特定の選手を認めることができない、みたいなひとは、そのスポーツのファンとはちょっと違った存在なんだと思う。
そしてまぁ、「真央ちゃん」ファンにはそう云う層が多かった、と云うことはあると思う。そして、この記事の著者も含むメディアも、その場その場の商売絡みの都合でそれを助長してきた、と云うこともあるだろう。
そう云えば昔、こんなエントリも書いた。
まぁいずれにせよ、そこにはスポーツ選手への敬意の欠如がある、みたいには思う。自分の応援する、ファンを自認する選手に対してのもの、さえも。そう云う状況に囲まれて、それでも自分のすべきことを現役生活を通して一度も見失わなかった、と云う点だけを取っても、浅田真央と云うのは傑出した選手だった、と云うのは云えるかもしれない、みたいにも思う。
ところで先に書いたけれど、好き嫌いと云う点ではぼくは浅田真央よりも安藤美姫のほうが好きだった。とりわけあの、宙を舞ってから鋭く回転して降りてくるディレイド・ジャンプが。それが、競技における評価基準において高水準な技である、と云うだけではなく。
ぼくは真央のジャンプがそれほど好きではなかった。それはあの「よいしょっ」感のせいでぼくには技単体としてあまり美しく感じられなかった、と云うこともあるけれど、それだけじゃない。フィギュアスケートの「美しさ」になにより魅了されている、ある意味いつまでも「にわか」なファンとしては、彼女のジャンプはプログラムのストーリィのなかで必須なものである、と感じられない場合がしばしばあった、と云う点が大きい。
プログラムのなかで一連の表現を紡ぐにおいて、ジャンプはフォルティシモだ。 そこには多くのものが込められる。大輔のジャンプはそのようなものであったし、結弦のジャンプもそうだ。織田のうつけの美しいランディングが、どれほどのものを伝えてきたことか。そして今季の、ジェーニャチカのそれは。
どうしても、真央のジャンプにはそう云うものがぼくには薄く感じられた。
とは云えそれは、浅田真央が表現の面で劣ったスケーターだった、と云うことではない。以前、こんなエントリも書いた。
浅田真央に不運があるとすれば、同時代に競う相手だったヨナ・キムと戦うための武器をトリプル・アクセルしか持たなかった、と云う点じゃないか、みたいに思う。選手として総合的に見た場合、ほんとうに評価されるべき真央の真価はトリプル・アクセルなんかにはなかったのに、そのせいで彼女の演技はいびつなかたちになってしまっていた、とまで感じたりする。
それでも、アスリートとして彼女と彼女のチームの判断は正しかったのだろうし、それはなにか責められるべきようなことではないだろう。
アマチュアとしてのキャリアの終盤において、安藤美姫のジャンプはまさにその表現に要求されるもの、としての意味があったと思う。その価値を認められないフィギュアスケートファンと云うのも、それほど多くはないのではないか。
もちろん、なにかしらの思惑でひとの感情を煽ろうとするメディア内部の人間や、まったく別の角度からフィギュアスケート選手に評価を下す「真央ちゃん」ファンはいるのだろうけどね。