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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

浅田真央の「鐘」

こちらのエントリのコメント欄でちょっと触れたけれど、ピアニストの山形リサさんのと云うエントリを読んで、真央の今期のFPに対して漠然と自分が感じていたものがなんだったのかちょっとわかったような気がしたので、書いてみる。

あ、ちなみにぼくはフィギュアスケートの観客としては初心者の域を出ない素人で、これから書くことも主観的で相対的な価値判断のお話。

……とか書いておけば、ぼくの馬鹿な頭では真意の把握に不自由するようなコメントはいただかずにすむかな。

前にも書いたけれど、ぼくは浅田真央のファンじゃない。この「ファンじゃない」と云う意味は、同じ女子シングルでも彼女より好きな選手が何人かいる、と云うことで、彼女の演技を観るのが好きじゃない、個人的に評価していない、と云う意味じゃもちろんない(これは例えば、真央の「よいしょ」と跳ぶジャンプよりも、もっとかろやかに舞い上がって柔らかくランディングする選手のジャンプのほうが好きだ、とか云う程度の話)。

少なくとも自分の好きな選手の順位が少しでも上がるように、演技中に「真央こけろ」とか思ったりすることはない(もちろんいい成績を取ってくれないとそのひとの演技が放送されないことになってしまうので、順位も大事ではあるんだけど)。とは云え「いちばん好きな選手」ではないのも確かで。少なくともぼくが「真央ちゃん」のファンではない、と云うことは確実に云える。

フィギュアスケートと云うのは、勝敗を競う競技で。そこに完全に客観的な評価が不可能な「表現」についてのポイントが加味される、と云う点については、当然ながら問題点もあるのだろう。

で、ぼくみたいな種類の観客については、技術的な優劣よりもその「表現」がまさに重要になる。なにが表現されているのか、それがどれだけ美しいのか。もちろん、試合と云うのが選手それぞれが勝ち負けを競う場で、選手たちはそこで勝利を得るために努力を積み重ねてきている、と云う点に対しての敬意は失ってはいけないと胆に銘じてはいるつもりだけど、それでも。

フィギュアスケート・シングルは男女別におこなわれる競技で、ルールも採点も男女で基準が違う。定められたエレメントの内容そのものが、男女の違いを前提にしている。だから男子選手は男性的な、女子選手は女性的な表現に向かうほうが、競技としては有利に働く。これも漠然と感じていたことだけど、あるひとのエントリを読んではっきりとわかったこと(そのエントリでは例示としてジョニーの演技を引き合いに出していて、それがジョニーのセクシュアリティに関連してくるものだ、とも読める書き方で、そこがちょっと強烈に不快だったのでリンクはしないけれども)。

男性的であること、女性的であること。選手の性別から離れても、それらは表現の対象として魅力的でありうる、と思う。

思うけれど、選手が表現の向かうべき方向として選ぶべきなのは(たとえそれがルール上有利であっても)それらだけじゃない、とも思う。

浅田真央の「鐘」と云うプログラムは、彼女の持ち合わせた女性性を表現しようとするものでは、ない。その枠に、制約にとらわれたものではない。真央のけして軽快とは云えない3Aを、かつて見せたものとはまったく違う力強いステップを、欠かせない要素として必然的に要求する、表現。そこにたちあらわれるのは、「浅田真央が顕れたもの」ではなく、「浅田真央が現出させようとするもの」。

このプログラムで真央がおこなっている作業は、彼女自身を表現することではない。その意味で、真央は「鐘」において彼女を制約する多くの囚われから離れ、表現をつくり出す主体としてふるまう。

それはマスメディアを通じてひろく知られる彼女のひととなりにも、(運動能力以外の)彼女が持ち合わせているいろいろな属性にももたれかかることのない、表現。彼女が女性であることは、ルール上の制約としては存在するものの、「鐘」と云うプログラムにおいては、まったく重要な要素ではない。

ぼくが今シーズン後半になって何度か漠然と書いた「現在の浅田真央が達した高み」と云うのは、表現者としてのその場所のことだったんだ、といまになって思う。

そこには確かに多くのひとたちが愛する「かわいい真央ちゃん」はいないし、そう云うものを求める「ファン」の方々には不評だろう。彼ら、彼女らはそのイメージを(そして真央自身の素養を)なぞるような、例えば4年前の「カルメン」や「くるみ割り人形」を、おそらくはいつまでも求めつづけるのだろうから。はっきりとした書き割りのイメージを楷書でなぞるような当時の浅田真央の「表現」を、ぼくは浅くて物足りないものとして感じていたのだけど。

表現者として捉えた場合に、今後の真央がどちらに向かうのかはわからない(そもそもアスリートに対して「表現者」としての側面からのみ捉えて論じることが、ぼく自身のいびつさでもあるし)。でも、今期の真央の「鐘」は、その歴史のなかで「表現」と云うものをとりこんで発達してきたフィギュアスケートと云う競技において、ひとつのブレイクスルーだったのではないか、なんて感じたりもする。

今期は、まだ終わっていない。ひょっとすると、ぼくたちはいまだ見ぬ完成した「鐘」を観ることができるのかもしれない。かろうじて、シーズンは終わっていないのだから。

中野さんの選択を残念に思う部分はあるけど、ぼくたちは今期まだ、安藤さんのクレオパトラを、鈴木さんのマリアを観る機会がある。大輔のザンパーノを、うつけのチャップリンを、小塚くんのギター・ヒーローを観る機会がある。ふつうなら残りかすのようなオリンピック・イヤーの世界選手権を楽しみに思う気持ちが、ぼくのなかにはある。

# 「鐘」を「現在のフィギュアスケートに対する警鐘」と捉えたがる向きがそこそこあるようだ。

# 正直、ものごとをそんなにわかりやすい文脈に押し込めないと理解できた気分になれないのか、とか感じてうんざりする。