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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

表現の媒体、そして主体としての「浅田真央」

青嶋ひろのがスポーツナビに書いた浅田真央が気づいていない大切なものと云うコラムがちょっと話題を呼んでいて、ネットでも(とくに怒り心頭の「真央ちゃん」ファンを中心に)いろいろとリアクションがあったりして。

それでなくともここはどうやら「真央ちゃん」ファンの逆鱗に触れがちらしいので、このへんのことについては書こうかどうかちょっと悩んだけど、とりあえず書いてみる(ちなみに青嶋さんのコラムについてはこっちでも触れた。今期の真央のフリープログラムをぼくがどう捉えているか、についてはこっちで書いている)。

ジャンプもそのほかのエレメンツも「技術」としては完ぺきに近いが、「氷の上で自分を表現する、何かを表現する」というフィギュアスケートのもうひとつの大切な部分が、まだ少し足りない。いや足りないのではなく、それができる力を持っているのに、必要であることに気づいていないのだ。

じつはぼくも似たようなことを何度か書いている。ただし3年くらい前。
ここでは、フィギュアスケートの表現としての側面、だけをとりあげる。それは本来、競技として、スポーツとしての側面と不可分なものではあるのだけど、ここを切り離さないと論旨がぐだぐだになってしまうから(「真央ちゃん」ファンのみなさまの主張がどれもこれも「でもだれそれより低い点数はおかしい」と云う場所で滞留して出られなくなってループになってしまう原因は、たぶんこのへんにあるんじゃないかな)。

表現は、だれのものか。
演劇でも、いっそプロレスでもいいんだけど、ここでは歌手のアナロジーで考えてみる。ある歌手のうたは、だれのものか。

すてきな歌が聞こえてくる。もちろんそれはまず、それをうたっている歌手のもの。すばらしい声と、技巧と、うたに乗せてつたえようとするテーマに対する理解と。でも、そのすべてがその歌手のものか、と云うと、どうだろう。
歌詞を書いたひと、曲を書いたひと。アレンジしたひと、バックの演奏をしたひと。もちろん歌手によって関与のしかたはさまざまだろうけれど、そのひとのうたがそのひとだけのものであるとは限らない。そして、その歌手自身がどれだけ関与しているか、そのうたのなかでどれだけの部分がその歌手のなかから出てきたものか、と云うことがいちがいにそのうたの価値を決める、と云うことにもならない。
それでももちろん、うたわれたうたはその歌手のものだ。

ミラクル・マオなんて呼ばれていたころの彼女の演技を、正直ぼくはすごいけれどつまらないもの、と感じていた。
きらきら、ひらひらした、はっきり云ってこどもっぽい振付を、とても真面目に、ていねいにこなす。それは確かにすてきだしすごいのだけど、つれあいの形容を借りれば「とても上手な漢字の書き取り」のよう。どこかお仕着せめいて見えて、浅田真央がその演技をどう捉えているのか、その演技で観客にどんなことを感じてほしいと思っているのかは届いてこない。

例えば、同じころの安藤美姫の「カルメン」。恋を闘いとみなし、勝ち取るために傷もいとわずに全身全霊を傾ける女性像は、彼女の勝負師としての内面と呼応して(まぁ、できのいいときには)強烈な印象を与えた。その表現には、安藤選手自身がいた。今期の大輔や鈴木さんの演技も、そう云う種類のものだったと思う。
じゃあ真央の演技のなかで、彼女自身はどこにいるのか。

これはもちろん、フィギュアスケートの演技には選手の内面が反映されているべきだ、と云う話ではない。その歌手の内面が表現されているもののみ、歌手のうたには価値がある、と云うことにはならないのと同じ。ただぼくたちは、どうしてもそう云う要素を通して表現を捉えがちだし、またそう云う種類の表現のほうが届きやすい。ぼくらの感受性はおおむね怠け者なので、理解するべき角度があらかじめ与えられた表現のほうが、すんなりと抵抗なくしみとおり、なじむ。

まぁ(本人の意識がどこにあったのかはともかくとして)3年ほど前の真央のプログラムで表現されるものが、当時の彼女の年齢相応の、あるいは年齢よりも幼い印象を与えるキャラクターに適合していたのは事実で。だから仮にそこに彼女自身の深い理解がなくてもギャップは生じなかったし、そのことがまたいまでも彼女に当時のようなイノセンス(と云う言葉にぼくはここでけしていい意味を込めるわけではない)を求める「真央ちゃん」ファンがたくさんいる、と云う状況の要因にもなっているのだろう。
でもこれは、3年前の話。現時点での話ではないし、浅田真央も3年前の場所にはいない。

「鐘」の演技のなかに、浅田真央はいるか。そこに彼女自身の内面は反映されているか。

端的に云って、いようがいまいが関係ない。そこで表現されるべきものを深く把握し、その表現に必要とされる要素をすべてコントロールして、一連の演技として滑りきる力量がないと、そもそもプログラムとして成立しない——「鐘」はそんなプログラムだ。そして、少なくともあのプログラムが要求する水準でそれをなしうるポテンシャルを持つ女子選手は、現時点で浅田真央しかいない、と思う。そこに自己の投影があろうがなかろうが、彼女自身の内面との乖離があろうがなかろうが、彼女はそれをなしとげたのだ。
テーマを決め、構成を与えたのはタラソワかもしれない。でも、演じたのは真央だ。タラソワからシーズン中に出されたと聞くプログラム変更のオファーを真央が断ったのは、彼女自身がそこに演じるべきもの、表現すべきものを見出したから、なのだと思う(コーチにもうしわけない、なんて思いだけで、あんなプログラムが滑れるものか。あんな表現ができるものか)。彼女はタラソワの表現のための媒体かもしれないけれど、同時に間違いなく彼女自身の表現の主体なのだ。
青嶋さんの書いていることには同意できるけど、同時にそれはとりたてて大きな問題じゃない、とも思う。

青嶋さんの書くことはときに選手の内面に寄り添い過ぎる部分があるように感じるので、結果として今回はこんなコラムになっちゃったんじゃないかなぁ、と推測はできるのだけどね。