宗教の側から
宗教の現場にいる方がニセ科学の問題に言及するのは、特有の難しさがあるんだろうなぁ、なんて、長保寺の公式ブログ(でいいんだよなぁ)の似非科学(えせかがく)と云うエントリを読んで思った。
実はここふた月くらいの間に、宗教と科学の接点について宗教の側から積極的に言及しようとしている玄侑宗久の著書を2冊ほど読んでいる。なんか読後感が自分のなかで明確に像を結ばないので、レビューは宿題になったままにしているんだけど。
さて、このエントリではまずいわゆるニセ科学に分類されるものについて、頭から否定しない姿勢を示されている。そのうえでいわゆる波動(最近流行りの記法をとれば「hado」?)について触れられているんだけれど。
主観的な「印象」を、あたかも客観的に比較可能な「現象」にすり替えているんじゃないですか
あちこちの神社や寺などを、凄いパワーがあると言う人もいれば、エネルギーが感じられないという人もいたり、勝手なもんです
まあ、独裁者が決めるなら、ナチズムに近いな
主観を客観に見せかけるのに、悪意が有っても無くても、この二つは違うんだから混同してはいけません
波動、パワー、エネルギーなど、あたかも客観性があるかのような言葉を精神世界に持ち込むのは、下劣な行為だという自覚をどうぞお持ちください
「感触」「愛」「素晴らしい」、など、個人的な感覚なのであって、それ以上でもそれ以下でもありません
なんかおっしゃることは至極真っ当で、当たり前で、と云うかちゃんとした坊さまが宗教者としてまともに考えれば、やっぱりそう云う結論になるよなぁ。
といいつつも、こんなエントリを書いたことがまだ記憶に新しいぼくとしては、なんかちょっとほっとしたりするのであった。