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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

方法論にまつわる悩ましさ

柘植さんが分析化学会の機関誌に掲載されたらしい文章を巡って、津村ゆかりさんが危惧を示すエントリをいくつか上げていらっしゃる。現時点で最新のものは私が問題性を感じた理由と云うエントリ。

実際のところ、津村さんの懸念は妥当なものだと思う。
と云うのは、同質の懸念を津村さんが上に挙げたエントリのコメント欄でおっしゃる「コミュニティ」の構成員も共有して来たからで(ぼくもまぁ、このコミュニティのはじっこにいるとして)。あれはニセ科学だ、これはニセ科学じゃない的なレッテル貼りにニセ科学の問題が矮小化されることは、少なくともその「コミュニティ」に一定期間以上継続して関わっている人間なら科学者のみなさんもぼくみたいな「大勢の非専門家のひとり」(うわ、いかにも烏合の衆っぽい)もずっと危惧している状況ではあって。

だから、「いかにして立ち向かうのか」と云う問題はじつはつねに意識されてきたし、まだかりそめにも有効と思える戦術的な原則のようなものも見つかっていないのが現状だったりする。

だいたいそもそもニセ科学批判はさっぱり流行なんかしていないのであって。それはコミットしている人間がごくわずかしかいない事実を見れば一目瞭然(ニセ科学そのものにコミットしている人間、そこに影響を受けている人間の多さと比較すれば、もうこれは歴然)。そのなかで「どうやって声を上げようか」「どうやれば伝わるのか」と考えているのが現在も続く状況だったりする。なんか「一派」扱いされるのも、ぼくたちみたいな烏合の衆を含めてコミットする人間がさっぱり増えないことから来る印象なんだと思う。

で、例えばコミットしている人間も、ニセ科学に対抗するための強い力を持った組織をつくろうなんて考えていないし、だいたいが組織化に馴染まないやり方をする人間ばかりだったりする。ある特定の組織がニセ科学認定をする、なんてやり方は、そもそも議論を重ねた上でいちおう「コミュニティ」に共有されているニセ科学批判の本質(二分法的思考法の批判や、権威を鵜呑みにする傾向への批判の部分)に反するわけだし。

ぼくは柘植さんの論文を読んでいないけれど、柘植さんの主張のコアが「学会が組織として反ニセ科学に立ち上がる権威となるべきだ」というところにはない、と云うのは間違いなく云える。それは、例えば過去にここでもその部分について直接の議論を柘植さんとしてきたぼくには当然分かる。ただ、それは方法論として選択可能な戦術であるのは事実なので、その弊害を危惧されるのもおかしくない。そのような方法論について、そこそこのボリュームの議論が積み重なっていることを津村さんがご存じなくても、それはなんの不思議でもないし、津村さんの落ち度でもない。

ただ、「ニセ科学批判コミュニティ(なんかこの云い方しっくりこない。おいらはそのコミュニティ内の人間なのか?)」がそう云う部分についてそれほどnaiveではない、と云うことについては、なんとなく主張しておくべきかな、と思ったりしたのだった。