Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

自分の立ち位置

最近の琴子さんちと云えばぼく的に一番重要なエントリは当然こちらなんだけど、どうもちゃんと言葉にならない(もう少ししたら蒸し返すかも)。で、自分語り絡みで途中と云うエントリにトラックバックさせて頂く。

私の思う科学とは、「無明の闇が包む洞窟を手探りで、一か所一か所に篝火を立てる行為」であると思っています。もちろん、広大無辺な洞窟ではまだまだ闇の部分があるわけです。

篝火に頼って暮らしている人間が、闇が広大であることを理由に篝火を嗤うのはぶざまだ。それは、つねに篝火を「あるもの」として暮らしている自分自身を省みることができない、能力の欠如を意味しているから。

闇を恋うてもいいし、篝火を疑うのも構わない。篝火は疑われることで、よりよい光を放つすべを学んで来た。でも、篝火なくして生きて行けるが如くに思い込み、振る舞うのは、単なる無知に留まらない見苦しい所行だ。闇をしっかりと捉えることは、同時に篝火の価値を理解することでもある、と思うから。闇を理解できない人間が闇を信仰し、篝火に根拠のない疑いの目を向ける。

人間の中に闇と篝火それぞれの眷属がいるのだとすれば、ぼくはまちがいなく闇の血脈に連なるものだ。それは闇を信じ、篝火を疑うということではないのだ。「キリンヤガ」に登場するコリバがそうだったように。
篝火の論理で、ぼくは問わない(その部分にあまり強くないのもあるし、ぼくには力を持った篝火の眷属の友人がいる)。闇に通じる論理を用いて、問いかけて行こうと思っている。

いずれにせよ、昨今指摘したがる人間のいる「ニセ科学批判に伴う優越感」は、少なくともぼくにはない。どちらかと云うと見苦しい道化だと思っている。
でも、ろくに考えもしない輩に野方図に闇を語らせる訳にはいかないんだ。