Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

比喩と寓意

germanwadaさんの方便とインチキの境界と云うエントリを読んで、ここのところずっと考えていたことを文章化してみる気になった。とは云え、まだちゃんと自分の中でまとまっていないので、多少隙のある書き方になるかも。

せっかくいいことを言っているのに、その論拠がインチキだなんて、本当にもったいない。仏教にも「方便」という考え方があり、世間的も「ウソも方便」なんて慣用句がある。だが、その方便だけで終わってしまっては元も子もない。方便を通じて真理に到達する道を示さなければ、正しい教えとは言えない。

そうなのだ。寓話が指し示すのは、結論ではない。その寓話の内容を通じて指し示す過程こそが意味を持つのだ。

寓話には動物が登場して、まるで人間の如く振る舞う場合が多い。でも、そこに登場する動物は、その動物の持つ属性から喚起されるイメージを利用した、象徴としての人間の姿だ。そうして、その喚起されたイメージを利用して示されるのは、関係性のなかでの人間の行動だ。
もちろん、そこでは字面だけで内実のない「愛と感謝」などは語られない。それは関係性の中での具体的な事象としてしか存在し得ないものだし(関係性の対象が特定の人間であれ、国家であれ、あるいはガイアであれ)、抽象的で中身がなくてしかもその中身のなさこそが最大の仕掛けであるようなものを、寓話は語らないのだ。

イメージの喚起力がないがために、例えば実証結果とたばかってまでそれは具体的な写真を必要とするし、一見科学的に見えるような用語で錯誤を誘う必要も発生する。それは寓話としての(ほとんど成立そのものも困難なくらいの)脆弱さを意味する。

あなたは「水」に何を、あるいは誰をイメージしますか?

追記:そう云えば、「水からの伝言」に寓意があるとしてそれを受け止めると世界がどんなふうに見えるかについては、このあたりとかこのあたりに書いたな。