レイヤー
p__o__nさんの非科学の価値と云うエントリを読んだ。
疑似科学は「科学を標榜している」と言う一点においては批判されるべきですが、
だからといって無価値にはなりません。
疑似科学
をどう定義するか、価値
をなににもとづいて判断するか、と云うやっかいな問題はつねにあるのだけれど、この部分はまぁおっしゃるとおりかと思う。でも、
信奉者が存在しているその事自体がその価値を示しています。
これはどうだろう。いや、それは信奉者
にとってはなんらかの価値
(と云うか「使用価値」かな)があるには違いないんだろうけど、そう云うことをおっしゃっているんだろうか。
まぁこの言明自体は間違っていない。「シャブ中が存在しているその事自体が覚醒剤の価値を示している」とか「ペドフィリアがいる以上児童ポルノには価値がある」みたいなレイヤーで云うならね。
いやこれは、疑似科学が覚醒剤や児童ポルノと全面的に等価だ、と云う価値判断の話じゃもちろんない。じゃあ、どこが違うのか。そして、どこが同じなのか。
明文的な経典を持たない"道徳"なので、
「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな
簡単な質問に答えることにも四苦八苦せざるをえないわけですが、
例えば水からの伝言はこういった問題に解決の手口を与えてくれるわけです。
その手口
がそもそも筋が悪いだろう、と云うのが、ニセ科学を問題視するたいていの論者のスタンスなんだけどな。
科学でも宗教でもない"道徳"の授業に、
科学でも宗教でも無い疑似科学が入り込むのはごくごく自然な話ですね。
ごくごく自然な話
とまで云っていいのかはわからないけれどまぁ少なくとも不自然ではない。だからと云って問題はない、対策もない、と結論していい話なのかどうかはまた別。
日本特有の問題が根底に有ります。
と云う前置きをされて、ここからさまざまな個別事例を挙げられている。それぞれの事例の共通点は、どうやら宗教にも科学にも根拠を持たないあやしいもの、と云うところにあるようだ(ぼくの誤読の可能性あり、ただしそうじゃないとぼくには判読不能、と云うことになる)。で、この段落の結語が、
疑似科学はこうしたものの一つです。
となっている。
上でも書いたように、あるレイヤーにおいてはこれも正しい言明だと思う。思うけど、上と同様に、それは問題や対策の不在を意味しない。挙げられている事例はそれぞれ問題だけれど(そして優先順位についてはそれぞれの捉え方があると思うけれど)、同水準の問題がある事柄が仮にあるとして、それは特定の事柄をその固有の性格から問題視するアプローチを無用のものとするわけではない。
上に上げたものの中で、疑似科学は科学の立ち位置から批判できる唯一の方法論です。
何しろ「科学を標榜している」というこれ以上無い正当な大義名分が有りますから。
いやこれは話の順番がばらばらではないかな。不当に「科学を標榜している」
ことを科学の立ち位置から批判
するのはふつうに正当
なので、べつだんそこに本来大義名分
云々を持ち出す必要はないんじゃないか、と思うけどどうか。あえて「強い相対主義」的にレイヤーを揃えて云えば、キリスト教異端を問題視するのはキリスト教会の仕事で、それはべつだん教会に大義名分
があるからではないよね。そして、社会全体から見て異端審問がどうか、と云うのはまた別のレイヤー。
いや、p__o__nさんがこう云う倒錯した記述をするに至る理路は見当がつかないわけでもなくて(残念ながらちょっと見慣れてもいるし)、それは現時点で、ニセ科学の問題がひとえに科学のみにかかわる問題ではない、と云う立ち位置の論者が比較的多く見られる、と云うことと関連して得られた認識から来るのだと思う。ニセ科学がどうとか云って、科学の部分だけ取り上げてあげつらってるわけじゃないじゃん、科学の権威を背景にニセ科学だけを取りざたするのはへんだよ、みたいな感じなんじゃないかな。だから(日本には宗教が根づいてい
ないから)例えばキリスト教会による異端審問への非難なんかはできなくて、なのでそう云うことをやりたい連中が大義名分
のあるニセ科学への批判をやってるんだろう、みたいな。
しかし、そこまでです。
先に言ったように、科学はそれ自体で他の方法論を批判する論拠を持ちません。
それ自体
と云うことを前提にすれば、これもまた間違っていない。
ただ、科学が現実の社会で権威として一定の役割を果たしていること、科学アカデミアもまた社会の中にある存在であること、を考え合わせれば、これは議論を単純化しすぎていることになる。
何度か書いたけれど権威にはその存在意義がある。権威はぼくらの思考と判断のコストを下げる。下げるけれどそのコストをけちりすぎると盲信になっちゃうのでまずい、と云うこともあるし、この文脈でより重要なのは、権威の詐称はその権威の果たしうる機能そのものを毀損する行為である、と云うこと。
ついでに云うと自然科学はその方法によって、特定のだれかに属することのない、ゆえに万人に共有可能な基準を社会に対して提供する重要な機能を、いまの社会では担っている。その意味で、自然科学の権威とその機能は、いまのぼくたちの社会の基盤のひとつになっている。このへんはぼくが拙筆を重ねるより(毎度持ち出して申し訳なく感じたりするけど)tikani_nemuru_Mさんの体験によらない知識の重要さについて言っておくと云うエントリで有意義な議論が展開されている。
そもそも科学の立場から疑似科学を批判する人は何を求めているのでしょうか?
科学以外の方法論を排除して一党独裁の状態にすること?
違うと思うよ、って云うのは上に書いたようなことがあるからで。で、例えばp__o__nさんからはぼくなんかみたいに科学の立場
以外からニセ科学の問題を取りざたする人間は何を求めている
ように見えるのだろう(いや、訊かない。どんな答えが帰ってくるのか、悪いけどありありと目に浮かぶ)。
この事を念頭に、もし科学が信奉者を増やすことを目指すならば
科学を発展させてより多くの人間を救済できるようにする事。
もし
って仮定されてるけど、それってだれの話?
もしホメオパシーのような社会にとって都合の悪い方法論を廃絶することを目指すなら、
他のより"良い"非科学の方法論の価値を認め、より寛容になるべきです。
他のより"良い"非科学の方法論の価値を認め
って、それはどれのことで、どうやってその価値を判断するのか、って話になると思う。
通常本業の科学者を含め、おしなべてニセ科学についてコミットしている論者は、科学的でない事柄の価値について通り一遍に否定する、と云うことはしない(菊池誠の「科学と神秘のあいだ」のご一読をお薦めしたい)。ここで残念なのは、非科学の方法論の価値を認め
るための判断基準は、p__o__nさんの議論の延長上にはないように思えること。それはもっと幅広いレイヤーにまたがった、それぞれのレイヤーにおいて慎重な判断をおこないながら進めるしかない議論なので。
そうでなければ我々は再びオウムを生み出すことになるでしょう。
なんで?