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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

粗雑な「粗雑な相対主義批判」批判

タイトルはこのエントリのことです。為念。

NATROMさんのところや黒猫亭さんのところでお見かけしたことのある地下に眠るMさん(だと推測する。プロフィールが見つからない)の粗雑な相対主義批判と云うエントリを読んだ。

先に云っておかなければいけないのは、ぼくはこのエントリの文意には概ね賛同していること。ぼくはこちらのエントリで、だいたい似たようなことを書いている(似たようなことでもないかも)。
ただ、なんか議論の仕方がまずいような気がする。

ただし

いわゆるニセ科学批判のお歴々による粗雑な物言いがだいぶ気になりますにゃ。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fakeS/PE06.html

ニセ科学批判を積極的におこなっている田崎晴明氏の手になる文章にゃんな。

この文章の「極端な相対主義の弊害」にある

>科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。

これってずいぶんと粗雑な認識にゃんなあ・・・・・

何よ、この「真実」の使い方。

前後の文脈を無視してここだけ切り出すと、まるで田崎教授が「科学は神話やニセ科学と違って『真実』であり、神話やニセ科学に科学と同様『真実』があると評価するのは『行き過ぎた相対主義』である」と主張しているように読める。もちろん、そうではないことは引用元を読めば分かるはずなのだけど(で多分誤解を招かないようにわざわざ「真実」と鉤括弧でくくってるんだと思うけど)、故意にか偶然にかわざわざこのように読めるかたちで地下に眠るMさんは原文を切り出している(こう云う切り出し方をしないと以降の地下に眠るMさんの主旨とつながらないので、おそらくは故意だと思う)。
そもそも田崎教授の原文には、何が「真実」であるかを議論しようと云う意図はないし、ここで真実、と云う語彙を使ってなんらかの言説を行おうとしている主体は田崎教授ではなくて、田崎教授がこの文章で言及している対象なわけで。

僕の理解では、自然科学のあらゆる理論は、それが広く認められた定説であってもすべからく近似であり、将来に代替理論がでてくる可能性のある仮説であり、真理そのものではありえにゃーもののはずですにゃ。だから、科学こそが「真実」ではありえにゃーように思えますにゃ。

例えばここにぼくは異論はないし(そりゃもう全面的に。ぼくにないからと云ってなにか意味があるわけではないけど)、ましてや田崎教授には異論の持ちようがないだろう(そうでなければ科学者は失業する、のだから)。

だから、科学こそが「真実」ではありえにゃーように思えますにゃ。

この辺完全に同意なのだけれど、うぅむ。結論に同意できても、そこまでの議論に同意できないってのはなんか難しいもんだ。
要するにそこに多分、もともと考え方の齟齬はない。齟齬はないのにどうしてこう云う論旨の展開になるのか、と云うと、

自然科学を真実と認めてくれる「相対主義」様に対して、ずいぶんと失礼なことをいう科学大好きくんが目につきますにゃ。

多分オチでこの科学大好きくんと云うフレーズが書きたかったからなんだろうなぁ、なんて思うのだけれど。わざわざ読み手に自分の意図どおりの誤読を期待するような回りくどい書き方をしても、説得力なんか生まれないのに。この科学大好きくんってのが誰を指してるのか、誰に向けてこう云うことを云いたいのか、どこで目につくのか知らないけど。極端な相対主義の運用例を別にすれば、ニセ科学批判を行っている科学者(あ、このひとたちを科学大好きくんと呼びたいのかな?)に相対主義そのものを否定しているひとを、ぼくは見たことがないけれど。