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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

論調

マンタ358さんの 伝えたいことの本質と云うエントリを読んだ。

この話で思い出すのが、江本勝氏の著書「水は答えを知っている」です。

ご存知の方も多いと思いますが、簡単に言うと、水を入れたコップに「ありがとう」と声をかけたり プラスの言葉を書いた紙を貼ったりして、その水を凍らせると綺麗な結晶ができる。
反対に「バカヤロー」など汚い言葉をかけると、グジャグジャの汚い結晶になる、というお話です。

最近、この著書に対する批判本が出回っています。

要するに、そんな実験の信憑性は疑わしい、水に言葉なんか分かるわけがない
といった類のものです。

僕も、情報を扱う仕事をしているので、一つの説に偏ることは公平性を欠くし、いろんな意見があって初めて情報だと思っています。
ですから、反対意見が出てきても一向に構わないのですが、残念なのは、実験の結果だけを捉えて一方的に糾弾する、その論調にあります。

どうなのだろう。実際のところ江本勝の実験はそもそも「実験」として何かを明らかにするような要件を備えていないので、基本的にはその「結果」がどうだろうと科学的には無意味だ、と云うのが批判側の共通した認識だと思うのだけれど。だからその「実験」と称するものの結果がどうだろうとそこから導き出されることは虚偽だ、と評されることはあっても、寡聞にして実験の結果だけを捉えて一方的に糾弾するような論調は見たことがない。だいたい「結果を糾弾する」ってどう云う意味だ。

こ 江本さんに直接聞いたわけではないので、真偽のほどは分かりませんが、彼が伝えたかったのは 水がほんとに答えを知っているかどうかではなく、人に感謝して、人のためにどう生きるか、という
人間の生き方そのものなのではないか、と思うのです。

「ありがとう」という言葉の波動が綺麗な結晶をつくるかどうかは、実はたいした問題ではないのです。

ちょっと考えればお分かりいただけると思うのだけれど、「水は答えを知っている」のロジックは、その実験結果が事実ではないと云うことを前提にするとほとんど説得力を持たない。それくらいのことが情報を扱う仕事をしている方に分からないはずはないのだけれど。
それとも、その程度の虚偽は問題にならない、と云うのがテレビに携わる方の認識なんだろうか。そうかも知れない。あるある納豆騒動とか思い出すと納得できる。

話の本質は「何事にも感謝する心を忘れずに」というごく当たり前のことだけど、最近みんなが忘れがちなことを今一度思い出そう、というきっかけづくりにあると僕は思います。

水に「ありがとう」と書いた紙を見せるのと、実際にだれかに心から感謝することの間にある隔たりは、決して小さくないと思うのだけれど。そして、その隔たりをことさらに無視することは、感謝する心そのものの価値をひどく矮小化することではないか、とぼくは思うのだけど。