Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

仕事と矜持

久しぶりに理系白書ブログを眺めていて、ヤスさんの肉体労働と云うエントリが眼にとまった。

いや、エントリそのものはなんだか感情論の垂れ流しっぽい書きぶりで、なんだかこれが本業のジャーナリストの文章なのかよ、みたいに思わせる部分があるのだけれど、でも書かれているテーマそのものはなんだかここ数年感じている違和感と重なるものがあった。

いつからぼくたちは、働くひとたちに敬意を払わなくなったんだろう。いろんなひとたちがぼくたちの生活を支えてくれることに、感謝をしなくなったんだろう。

先日、株で「信じられないほどカネをもうけた」という人に有罪判決が出ていたが、この発言を聞いて、「そうか、こうすればもうかる」と思った人もいるだろうが、私は腹が立った。世の中にはきつい肉体労働しても収入が少ない人がたくさんいるのだ。
私の両親は「親と同じ仕事はするな。苦労する」と口酸っぱく言っていて、だったら「なぜ苦労しているんだ」とバカにしたこともあった。だが、こういう人々が荷物を運んでくれるからこそ、私たちの生活も成り立つことを、年とともに知るようになった。

でも、いまこの国では、そう云う人々に支払う報酬を最低限にして、可能な限り敬意を払わないことが求められているのだ。そうしてできるだけそこからたくさんのあがりを掠めとる仕組みを作った人間が称揚されるのだ。

例えば介護は大事な仕事だ。でも、その仕事に充分な報酬を支払えば、制度そのものが立ち行かない。だから、報いない。

安全な電車の運行は大事だけれど、それは経済的な付加価値を生まない。だとすれば、その安全に振り向けられる努力は、その努力を支える職業上の矜持は、なんの評価の対象にもできない。安全を確保することは、余計なお金を一円も生まないから。

敬意を払うと、損をする。
どうせ代わりの人間はいくらでもいるのだし。最低限の賃金でも、よろこんでその仕事をする人間が。

ぼくたちは働きながら、同時に一面ではお金を払う消費者でもある。でも、あまりにも「お金を払うことによる敬意」を求めるのでは、結果的には自分たちの社会を支えるモラルを底なしに凋落させていくだけなのではないか。
ぼくたちはいま、その過程にいるのではないかなぁ。