Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ナルシシズムの位置

茂木健一郎斎藤環の交換書簡について少し前に触れた。で、それについての銀鏡反応さんのクオリアはナルシシズムか?と云うエントリを読んだ。

のっけから、

あくまで斜め読み程度だが、脳内に五感に伴って発生する質感=クオリア(感覚的・志向的の二通りある)を如何やら、ナルシシズムと批判しているようなのだ。要するに斉藤は、恣意的に茂木を「鼻持ちならないナルシシスト」と決めつけたがっているらしい、そんな印象を受けた。

と来た。
正直どう読めばそうなるんだろう、とか思う。ひょっとして斎藤の云うクオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することと云うのを、ナルシシズムに対する指摘、と捉えてるんだろうか。なんと云うかすごい読解力だ。

若し斉藤のいうようにクオリアがナルシシズムであれば、花の色を目で見て美しいと思うことはナルシシズムということになる。香水の薫りを嗅いで「嗚呼、いい匂いだ」と感じることもナルシシズム、美味しいものを美味しいと舌で感じることも、美しい音楽を聴いて心地よくなる事も、街のノイズを聞いてなんとなく不快になることも、全部、ナルシシズムと言う事になる。

そりゃそうなるだろう。斎藤はそんなことは云ってないけど。

しかしそうでなはなく、ただタンに茂木を、「クオリア」を振りかざす「鼻持ちならぬナルシシスト」と決めつけるのであれば、大変に申し訳ないが彼はやはり精神科医として「資格がない」ということになろう。

あれ?
この方は斎藤の云う「この私」と云うのが、茂木健一郎のことを指している、と読んでるのかな?
凄い。さすがに「斜め読み」で「受けた印象」だけでものを云うことになんの抵抗もない方だけある。と云うか要するに斎藤の云いたいことが何も読み取れてない、ってことなんだろうな。

ものを見て、聴いて、嗅いで、食べて、そして考えて…ということは、人間が生きていく上で起こる生理的現象のはずである。クオリアはそれに伴い発生するひとつの現象である。そしてそれは誰の脳内でも個別の形で発生するものである。また、あらゆる文化・藝術・思想の根本にクオリアがある。茂木はそれを的確に見抜いた、おそらく数少ない日本人研究者のひとりであろう。

と云うか、クオリアってのは、前にうちのコメント欄できくまこ氏がおっしゃっていたように、説でも理論でもなく、問題提起ないしは問題設定なんだと思う。なんと云うか、どうしても解決できないものに名前をつけた、便宜的な仮説。それをなにか実体のあるもののように思い込むと、上の引用部分のような発想に行き着くんだと思う。

斉藤も往復書簡という形をとらず、一度茂木と実際に出会い(それが出来ないから往復書簡のスタイルで茂木と議論を試みたのだろうが)、茂木の生きざまをダイレクトに知り、彼に対する考えかたを改めてみた方が良さそうだ。

実際に会って生き様を知らなければ本質が理解できないような人間の言説なんて、程度が知れると思うのだけれど。ましてや支持者にそんな云い方をされる科学者(あるいは思想家)なんて。

と云うか、なんか分かった。こう云う方たちが、あんなかたちで茂木健一郎の言説が巷に流布する風潮を支えているんだろうな。
残念だけど、茂木さんはまずこう云う方たちに誤解されないような露出のし方とか、「クオリア」と云う言葉の使い方を考えたほうがいいと思う。ファッショナブルな言説を繰り返していると、「理解してくれない支持者」ばかり増えるんじゃないかな。それはそれで戦略なのかも知れないけど。