Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

定義の水準

こちらのエントリに、當山日出夫さんよりトラックバックをいただいた。『疑似科学入門』:疑似科学と科学は明瞭に区別可能か と云うエントリ。

論題となる疑似科学入門で用いられている「疑似科学」と云う用語は、菊池誠の定義による「ニセ科学」と本質的に同意なので、以下はニセ科学批判の文脈と用語で述べる(批判の対象とされていない意味合いでの「疑似科学」と云う言葉が存在するのだけれど、その部分の議論はしない)。

ひとつあるのは、ニセ科学問題と云うのは、「正しい」か「間違っている」かを論点として論じられているものではないと云うこと。そこで論じられているのは、「科学である」か、「科学ではない」か、で。単に間違っているものについてはニセ科学とは呼ばれないし、議論の俎上からは排除される。「間違っている」かどうかを議論するのは、別の議論軸になる。

「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)

「科学」と「疑似科学」(疑似科学にもいろいろあるが)については、このような、相互に逆方向にしか、定義できないものであると、思う。

これは捉え方が違うと思う。

「文字」についてのアカデミックな定義はわからない。でもそれは例えば最低限、「言語に結びついて、音または意味を表すもの」だと思う。この要素を満たさないものは文字ではない、と云うにあたって、逆方向からの定義が必要なのだろうか。だとすれば、基本的に文字についてはいっさいなにも語り得ない、と云うことになりはしないか。

「科学」には、定義がある。定義そのものについての議論ももちろんあるけれど、手法・発想法としての科学については、共有されている認識がある(少なくとも、議論が成立する水準では)。一般にそこを満たさないものを「ニセ科学」と呼ぶ。例えば文字の研究においては、上記のぼくの雑駁な定義を満たしているか、と云う水準についてまでいちいち立ち返ってから、「正しい文字である」可能性を都度都度考察していくのだろうか。

「大前提として、「正しい科学」というものがある……ということを、暗黙のうちに設定してしまうことの危うさ、これは、言い換えるならば、科学の方法論への自覚の欠如と言ってよいかもしれない。

ここを暗黙のものとしないために、例えば科学哲学と云うものがあるわけなのだけれど。で、ニセ科学に対する批判を行うにあたっては、都度言及されていなくてもその知見を一定水準前提として踏まえているわけで。そう云う意味で、少なくとも盲信に似た意味合いで暗黙のうちに設定されているわけではない。
例えば文字についての研究では、議論の端緒でまず「言語に結びついて、音または意味を表すもの」であると云う定義を疑うところから毎回始めるのだろうか(繰り返すけどこれはぼくの思いつきの素人定義で、アカデミックな裏付けのあるものではないけれど、まずは常識レベルではあると思う)。

疑似科学を、科学の対象とすることによって、科学とは何であるかが、より分かるようになる……このような論の方向が望ましいと、考える。

ニュアンスとしてはわからないでもないし、そう云う方向はまぁあるのだろうけど。でも、それは文字の研究においてクレーの絵を対象とすることよりももっと迂遠であるような気がする。

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

  • 作者: 伊勢田 哲治
  • 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本
 

コメントがないうちに追記(8:19):
実は當山さんがお書きなのはもう少しメタな水準の議論(この本が書かれるにあたっての著述の方針とか)のような気もするにはするのだけれど、トラックバックいただいたエントリではここで書いたような背景を持って議論されている、と云うのは明確にしておきたい。