もの申すこと
庄内拓明さんのホメオパシーに関する 「うじうじ」 が晴れたと云うエントリを読んだ。
いや、庄内さんのお書きのことについては以前こっちやこっちで言及したことがあって、その際にだいぶ気分を害されたようだったので、ちょっと気がひけるのだけれど(でもまぁうちが言及したぐらいで炎上したりはしないのでだいじょうぶか)。
このところのホメオパシーの一方的な叩かれ方を見るにつけ、なんとなく割り切れない思いがしていた。寄ってたかって 100%インチキみたいに言う世の論調には割り切れない思いがするし、かといって、完全擁護する気にも到底なれない。
この気持ちがわかる、みたいにぼくが書いたらまぁ笑われるんだろうな。一方的な叩かれ方
をされるだけの理由があって、現状その理由はまだ解消されていないのだからしかたがない、とか思っても、なんか流行りに乗っかってるようにみられるのはあんまり楽しいことじゃないし(ちなみにここで書いたエントリで最初に「ホメオパシー」タグがつけられているのは2009年7月7日付のもの。昨日今日じゃない、と云うのだけは主張しておく。すごくどうでもいいけどね)。
こちらは専門知識はないし、試してみたこともないから、当然ながらそれで病気が治ったという経験もない。しかし、「ホメオパシーの基本コンセプトって、予防注射とか、『酒が弱くても、どんどん呑みゃ強くなる』 とかいうのと、それほど遠くないんじゃないの?」 という私の疑念は強まるばかりだった。
基本の発想はまぁ遠くない、と云ってもいいのだと思う。問題はノンアルコールビールだってのをわかったうえでそれでもどんどん呑みゃ強くなる
って主張するのは妥当か、みたいな部分にあるわけなんだけどね。
発想自体は決して 「トンデモ」 系というわけではなかったということに注目したい。
それなりの自前の場所を構えてホメオパシーを批判している人間は、このことにはだいたい同意すると思う。厳密に云うと「200年前は」「トンデモ」 系というわけではなかった
と云うわけなので。
私は病気が治りさえすれば、西洋医学だろうが、漢方だろうが、鍼灸だろうが、ホメオパシーだろうが、まじないだろうが、何でもいいという考え方である。
そりゃだれだってそうでしょうよ。
と云うか、現在の通常医療そのものが、根底にそう云う発想を置いて運用されている。要は効けばなんでもいいのだ。ただここにおいて、効くかどうかと云うことをなにを基準に、どうやって判断していくか、と云うことが問題にされる。
そう言いっぱなしだと炎上しかねないので、念のため 「病気が治りさえすれば」 という前提を強調しておきたい。治らなかったり、かえって悪化したりしたら、そりゃやっぱり困るので
こう云う書き方をしてしまうあたり、庄内さんだなぁ、とか失礼ながら感じてしまう。ある療法が病気をほんとうに直すことができるのか、そこをどうやって見極めて、知識として共有可能なものにして、可能なかぎりだれもがその療法を受けられるようにするのか、が肝要な部分なのに(そして、それゆえに医療は科学を背景にしていなければいけない、と云う話なのに)。
ホメオパシーやまじないは、最初に頼る療法としては考えない方がいいだろうが、あらゆる手を尽くしても治らずに医者にも見放された不治の病人が、最後の最後にまじないに頼りたいと言ったら、無理に止める理由はない。
ホメオパシーを批判している論者も、誰もがだいたいは同じことを云うだろう(自分で選んで勝手に頼るぶんには愚行権の範囲だから、最初に頼ろうがどうしようが構わない、と云う論者もいる。ぼくがそうだ)。問題として主に論じられているのは、その患者がほんとうにあらゆる手を尽くしても治らずに医者にも見放された不治の病人
なのかどうか、そうではない患者を(いまだ打つ手があるにもかかわらず)通常医療から引き離す役割を、ホメオパシーを含む一部の代替医療が演じているのではないか、と云う部分なのだけれど。そして、そのような役割を演じる可能性が高くなるような方針をもって自分たちの療法を運用している代替医療業者が存在するのではないか、と云う部分なのだけどね。
いやまぁこんなことを書いても、庄内さんには、べつにおれが信じてるわけじゃないし、みたいに鬱陶しがられるのがせいぜいなんだとは思うのだけど。その程度の関心と言及対象に対する理解でなにかもの申そうとするような感覚はよくわかんないんだけどね。