Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

歩くか、泳ぐか、グライダーに乗るか。

亀@渋研Xさんの自然科学と人文科学。どっちもわかっていない自分と云うエントリで、こちらにちょっと言及いただいている。

いやまぁ、自然科学・社会科学・人文科学の明解な相違については、ぼくもちゃんと理解しているわけではないんだけど(どちらかと云うと社会科学がバックボーンにあるつもりだったんだけど、ごく最近も「大学四年間が無駄だった」と評されたばかりだし)。

ただ、本質的にはすべて「科学」には違いないと思う。扱う分野が違うので、方法論が違う、と云うことはあるだろうけど。
歩くか、泳ぐか、グライダーに乗るか。それぞれフィールドも必要なノウハウも違うだろうけど、「移動する」と云う本質では同じ。

ところでまえのパラグラフは比喩であって。比喩、と云うものの働きには、要素を抽象化して筋道をわかりやすくする、と云う機能のほかに、そこで用いられる用語の喚起するイメージを利用する、云い換えれば用語の生ぜしめる類感呪術を利用する、と云う部分があるのだと思う。上でリンクしたぼくのエントリの言及先であるsapporokoyaさんの一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしいと云うエントリに書かれている懸念(と云うのとは少し違うのかもしれないけど)には、そう云う部分に対する危惧もあるのかも、とか思ったり。

「○○学派」なんていうのが、あるじゃないですか。あれって、「最もよく説明できる」の判定が割れて決着がつかないケース、つまり「違う場合」の例じゃないのかしら。「『経験の理解』について、デューイはこう考えたが、カントはこういう立場で、ヴェーバーはこういう立場で」とかなんとか、そんな話もありますよね(人名はオヤジの本棚で見た方々ってだけで適当です)。

まだ確認できないような最先端の仮説なんかに関しては、自然科学だってそうなる場合があるのかな。

そういう状況って、ドグマみたいなものになったりせんのだろうか。自然科学の場合は確認可能になるとともに、廃れていったりするのだろう。人文科学だと、いつまでも確認可能にならなくて、ずーっと生き延びていたりもするのかな。

この点については、自然科学も人文科学も基本的には変わりないんじゃないか、と思ったりするんだけど。検証のむずかしさとか、そう云う条件が違うだけで(経済学なんて扱っている事象が基本的に一回性のものだったりするし。それでも「科学である以上、完全に予測可能なはず」みたいな凄いことを主張される方も実在するんだけど)。別のエントリのコメント欄で、きくちさんがミチューリン農法なんて云う例も挙げてらっしゃるし、それは分野が宿命的に持つ性格、と云うようなものではないんじゃないかと思う。