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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

プレイ

狩田英輝さんの食事とはセックスの暗喩である、ということについて考えたと云うエントリを読んだ。

食事というのは外部のものを取り入れるということで、それはある種の呪術であり、セックスの暗喩にほかならないんだよね。

つねにそうである、とまでは云えないにしても、特定の文脈でそう云うことはありうるだろうし、(ほとんど造詣はないけれど)ライトノベル、と云うジャンルにおいてそう云うケースが多い、と云うこともなくはないのかな、とは思う。

 例えば食育

 これが本来は本来は陰陽道をバックにした極めて呪術的なものだったのは食事の呪術的側面からすれば必然的な結果だし、食育に絡んだトンデモが多いのも、それが呪術であるから、と考えれば当然の事。
 つまるところ、子供を丈夫に育てるおまじないと同類なんだよね。
 またセックスの暗喩とすれば、食育とは自分の子供とするセックスに他ならないし、それを工夫するのも…ねぇ? 外部からのニセ科学批判は、当人にとってみればプレイに文句をつけられるようなもので余計なお世話なんだよね。
 もちろん、子供にとってはへたすりゃ命の危険さえあるわけだけど。

呪術であること、プレイであることを、それ自体をもって批判することは(おそらくは愚行権の議論とも関連して)当を失したおこないである、とは思う。ただ、呪術をそれ自体が有効たりうる範囲を超えて適用するのも、プレイであることを当事者間の対称性の確保されていない状況で認めるのも、おなじくらい失当な行為だ、と思ったりするのだけど。

親と子、教師と学童、代替医療業者と病人と云った非対称でありうる関係のなかで、プレイを無制限に許容すべきか、と云うと、それは違うと思うんだよねぇ。