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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

共有されるもの

先週になるけれど、こちらで言及させていただいた深海魚さんが、スピリチュアルとか、ネットワーク商法とかと云うエントリで、第32回 東京すぴこんのレポートをお書きになっている。

スピリチュアル・コンベンション(要するにスピリチュアル商売の見本市)と云うものの存在はなにか漠然と知っていたように思うけれど、今回深海魚さんのところ経由でサイトにアクセスして、「出典出店ブース一覧」とか眺めてみて不思議な気分になった。これ、ブース同士で宗教戦争とか起きたりしないのか。しないんだろうなぁ。少し前に触れた阿部敏郎さんのような、ぼくなんかから見ると自然な議論をするスピリチュアリストのほうが、あまり見かけないもんなぁ。

代替医療や健康食品が疑似科学の形をとって現れるのは科学主義と表裏一体だ、という仮説を考えた

このあたりの「ニセ科学は漠然とした『科学に対する信頼感』みたいなものに立脚している、のではないか」と云う議論はなんとなく繰り返し出て来ていたりする(どこかの場所で集中的な議論があった、と云うわけではないので、ここでは話が出た複数の場所にリンクしている亀@渋研Ⅹさんの【メモ】消化不良:科学への信頼とかと云うエントリにリンク)。考えてみるとニセ科学が科学を詐称するメリットって、本来その辺りにあるんだろうし。
で、漠然と把握されている「科学的」と云う言葉が、なんとなく「事実」とか「真実」とか云う意味だけを持つ紋切型として流通する。そのもとの意味は忘れられたまま、と云うか、関心を持たれないまま。これ、ことばの本来の意味に対して拡大しすぎ、と云うかある意味買いかぶりすぎなんだと思うのだけど。

科学風味の説明、というのは外部の人とコミュニケーションするのに最低限必要な「共有されていることば」の役割を果たしているのかもしれません。

多分その共有のされ方が問題なんだろうな。と云うか実際のところ、それはそのことばについてのなにを共有していて、その共有された認識に基づいてなにをコミュニケートしていると云うことになるんだろう。・・・みたいなことを云うと、たいていこちらの共感能力や納得力の不足を非難される帰結になるんだけど。不思議だ。