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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

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TAKESANさんのじゃあどうするの?と云うエントリを読んでちょっと思ったこと。
いや、コメント欄に書き込もうかとも思ったんだけど、あきらかに議論の方向を曲げてしまうので。

私は、自分なりに、科学の方法を少し勉強してきて、社会や自然の仕組みを解き明かす方法、「どうなっているか」を確かめる方法としは、明らかに最も優れている、という風に思っているのです。

ここの辺り、まぁ異論と云うわけではなくてむしろ(ぼくとTAKESANのあいだに以前からある、視点の違いから生まれる)スタンスの相違なんだけど、ぼくは方法として明らかに最も優れているとまでは云えないのかな、みたいに思ったりしている。TAKESANさんはあえてお書きではない(踏まえていない、と云うことではもちろんない)けれど、前提としてそれはひとつの方法であり、万能ではない、と云うこともあるし。
ただ現時点で、代替できる適切なものがないようなすぐれた方法であるのは間違いない、と思う。現実的に、それは役に立つ。役に立つ方法は科学だけではないけれど、でも飛びぬけた成果を(ぼくらの日常がその成果のうえに組み立てられていることを忘れていられるくらいに)挙げている。それだけのものであるし、またそれ以上のものではない、とも同時に云えるわけで。

飛びぬけた成果ゆえに、その方法としての評価に対していろいろなバイアスがかかる、と云う部分については、直近ではlets_skepticさんの科学はその成功ゆえ誤解される運命にと云う優れたエントリがあがっている。ここで指摘されていることのひとつは、多くの疑問や非難が買い被りと誤解のうえに生じている、と云うこと。これは、上で述べたようなことがあまり理解されていない、と云うことから生じているのだと思う。まぁこれは、科学に携わる側の(教育も含めた)マーケティング的努力の不足、と云うのもあるのかも。
ただ、ここしばらくいくつかのエントリでも書いてきたように、「マーケティング的努力」と云うことそのものにも、別の問題の萌芽は内包されているわけで(その部分、菊池誠あたりが「科学はマーケティングではニセ科学にかないません」みたいな言い方をする理由でもあると思う。モラルの問題、みたいに云ってしまうとちょっと粗雑に過ぎるのだけれど)。

ところで、ぼくの場所から見ると、科学と云う方法が志向する方向性が含む特色のうち、重要な部分が2点あるように思える。
ひとつは、そこに自分自身の品質を向上させていく仕組みがビルトインされていること。これについては、小飼弾さんが「永遠のβ版」と云うとてもエレガントな形容を与えている。この意味で、ある時点でのスナップショットとしての科学は、有用であっても万能ではありえない(オルタナティブを認めない頑迷さに対する批判も、万能をうたっているとの批判も、この時点で単なる事実誤認に基づく、と云うか多くの場合要するにまじめに考えていないために生じるものであることがわかる)。
で、ぼくらの日常においてより重要だと思うのは、「その方法と結論についての理解が共有可能であること」だと思う。

科学の方法そのものは狭量だ。そこには「そうは云うけどわかりあえればいいじゃない。にんげんだもの」的な曖昧さはない。でも、まさにそれゆえに、「わかりあえない」「共感しあえない」みたいな曖昧で属人的な理由を根拠として特定の見解を排他することはない。逆説的なもの言いに聞こえるかもしれないけれど、このことはある事柄についての共通理解の獲得の可能性を広げるし、その意味で結果としては(ほんとうの意味での)寛容さを生む。
で、この特色を生かそうとする志向は自然科学だけのものじゃないし、その意味で文系の学問も「科学」なのだと思う。