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基本仕様と合理性 (「行動経済学 経済は「感情」で動いている」友野 典男)

やっと読み終わった。

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

  • 作者: 友野 典男
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/05/17
  • メディア: 新書
 

いや、多分それほど難解な内容の書物というわけではなくて。ちょっとくたびれてると読書能力が減退して織田作だの百鬼園先生だのに逃避してしまうぼくであるわけなので、読了まで3週間ばかりかかった次第。

で、多分この本を本当に理解するためにはミクロ経済学の基本的な知識が必要なんだろうけど、残念ながらそんなものの持ち合わせはない。そう云う意味では一読しただけで充分に読みこなせたと云うわけではないのだろう、と自分で思ったりもするけれど、それでもそこから得られる示唆は少なくない。

行動経済学は、経済学がモデルとする経済人と比較して、実際の人間がどう行動するかを周辺領域の知見を援用しながら解明していくもの。この本は多数の実例(と若干の数式)を用いて、その考え方のフレームワークを紹介していく。
ちなみにぼくは経済学についてちゃんと学ばないまま(と云うかろくすっぽまじめに勉強しないまま)経済学部を卒業してしまった人間で、だから経済学はよく知らない、はずなんだけれど、実際のところはいろんな事柄を考察していくにあたって妙に経済学的な発想をする傾向がある。これが、じつは学んでいないつもりでわりと学んでいたせいなのか、それとも社会人になってからの金融業界での経験から生じるものなのかはよく分からない。

で、この本を読んで感じたのは、経済学と云うのが(どのように取り繕おうと)やはり人間を対象とした文系の学問なのであるなぁ、と云うこと。ずいぶんピントはずれの感想だとは思うけれど。で、それを数式なんかを操りながら理詰めで展開できるのは、「現在の経済体制」とそのなかで暮らす「経済人」を前提にしているからだ、と云うこと。
だから経済学がいかに文系学問の女王様然としてふるまおうと、それは「経済人」と云う前提をおいての体系であり、そう云う意味で張子の虎だ、と云うのが「つっこみ力」でのパオロ・マッツァリーノの主要な主張だったと思うのだけれど、どうだったかな(とっとと売ってしまったので確認できない)。

まぁでも実際の経済の多くの部分が心理学的なファクターによって動いている、と云うのはいまさらぼくなんかが云わなくてもみなさん先刻ご承知だと思う。ぼくは若い頃に必要に応じてちょっとだけ勉強した相場のテクニカル分析を通じて、そのことを実感を持って知った。

ヒューリスティックバイアス。それらが、「経済人」としての「合理的」な行動をゆがめる。ダイレクトにむすびつけるのは安易かもしれないけれど、これらのことばを別の角度から捉えればぼくたちが論じているところの「人間の基本仕様」になる。
それはまた別の、固有の文脈での有用性を持つ(このこと自体はこの本の中でも触れられている)ものであり、その点において軽視すべきものではないのだけれど、それでもそこに判断を委ねてしまうのは(ネガティブにでもポジティブにでも)「不合理」だ、と云うことではまぁ、ある訳で。

結局のところ経済学が扱うのは「現時点での経済環境を前提にした、現在合理性が認められる議論」で。このことを前提におかないとなにやらおかしなことになる、と云うのは、まっつぁんが指摘していたような(指摘していなかったような。手元にあった著書は全部売ったので定かではない)。でもまぁこれは経済学の罪、と云うわけではなくて、そもそもおそらく「合理性」と云う概念の射程がそれくらいだ、と云うことなんだろう。

おまえがなんでいまさらそう云うことを云うのだ、みたいな指摘は当然あると思うけれど、そう云う意味で例えばニセ科学批判の文脈の中でことに当たって援用できるような概念や考え方はいくつも見出せる(もちろんあくまで入門書なので、この本を1冊読んだだけで「行動経済学の立場からのニセ科学批判」みたいなことは、ネタとして笑いをとる目的で書く以上のことは多分できない。最初に書いたけれど、多分ミクロ経済学の基礎的な知識も必要になると思う)。ただ、ぼくと同じように割合と「合理と非合理」と云うような事柄について高い頻度で考えるような状況にあるひとには、この本の与えてくれる示唆は(それが断片的なものであっても)非常に有用だと思う。
その点で、この本はおすすめです。ぼくも読書能力が戻ってくるころあいを見計らって再読します。