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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

当事者意識

庄内拓明さんの水伝論争と自虐史観論争は似てると云うエントリを読んだ。「水からの伝言」やニセ科学についての議論に対する、ある種の論客の典型的なスタイルが見えて、興味深かった。

結局のところ、ニセ科学を肯定する側も批判する側も、根底の部分では科学に基本的な信頼を置いている。そうしないと、ふつうの生活が成り立たないから。この辺りのことは、こちらのエントリで書いた。ポイントは、そのことを意識できているかどうかで。自分は日常において自然科学に信頼を置いていない、と考えている生活者がいるとすれば、それは単に想像力と思考能力がごっそりと欠如していると云うだけの話で。
その程度のことが分かっていれば、例えば下記のような言い回しはできないだろう。

つまり、科学でもないのに科学のような体裁を取ろうとした、あるいは、現状の科学では理解不可能だろうが、科学ももう少し進化すればわかるだろうという (エラソーな) 言い方をしたために、科学君の方がむっときてしまったというわけだ。

ここでこう云う云い方を平然とできるのは、ご自分がなるほど、そりゃ 「自虐史観」 じゃないと云うエントリでお書きになっているような当事者意識が全然ない立ち位置から俯瞰することをエクスキューズなしにご自分に許容されているからで。意識的にそうされているのならこれは不誠実と云うことだし、無意識にそうされているのならまぁ、非常にナイーヴ、と云ってもいいと思う。
ときおり見かける「ニセ科学について信奉者側と批判者側を中立的に公平な視点でみているつもりの言説」と云うのは、典型的にこう云う種類のものなのだ、と云う程度の話ではあるけれど。