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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「レッテル貼り」

dlitさんの[学問][雑記]議論におけるタグ付けとしての罵倒表現と云うエントリを読んだ。で、どうもこの「レッテル貼り」と云う表現の持つニュアンスが前から気になっているのでちょっと書いてみる(どうでもいいけどdlitさんの新しいプロフィール画像がなんかおいらの兄弟分みたいだぞ)。

(的確な)ラベル付けというのは情報の収集や整理をスムーズにしてくれる。

レッテル貼りそのものがそもそもよくない行為だ、と云う論調でものを云おうとするひとは多いけれど(少し前のここのコメント欄には、ぼくを「レッテル貼りの好きな下司な人間だ」と主張したいためだけに自ら一生懸命レッテル貼りしてもらえそうな幼稚な行動をとり続けるごくろうさまな方も登場したけれど)、本来それは特定のレッテルを共通認識として踏まえて議論を分かりやすくするためにとられる手法であって。TAKESANさんのところで少し前からときおり議論のメタ化と云うような主題でエントリがあがったりしているけれど、論点に対する見通しのよさを獲得するための単なる方法のひとつ、と云ってもいいと思う。

もちろんそれはdlitさんがわざわざ(的確な)と云う前置きをしているとおり、そのレッテルが意味するところがなんであるのか充分共有可能なだけの背景となる論拠が示されているときにはじめて有効になる機能であって。その論拠を担保するのはdlitさんの云うような詳しい人によるものだ、と云うことかもしれないし、またネットの上でのテキストによる言説をベースに考えるのなら、その依って立つ、そのレッテルに先立って提示されてきた言説そのもの、と云うこともできるだろう。

ところがこの「レッテル貼り」と云う言葉には、どうしても「実はその論拠があいまい」と云うニュアンスがつきまとう。だからこそoruteさんはぼく(やニセ科学批判者全般)を「レッテル貼りの好きな人たち(=論拠の曖昧なことに基づいて詳細な検討もなしに他人のことを決めつけるひとたち)」に分類して、自分が不当な評価に晒されていると云うのをアピールしたかったんだろうし、その手法としてクレヨンしんちゃんみたいに「相手がいやがるだろう言葉をなんとかの一つ覚えのように連呼する」と云う愉快な行動をとったんだろう、と思う。

でも、そもそも「レッテル貼り」と云う言葉の持つニュアンスを利用して、相手にそう云う印象を貼り付けることを試みる、と云うことそのものがなんとも云えず香ばしい入れ子型の構図をかたちづくっていたりしたのがこのケーススタディについては妙味で。ぼくはここにも、紋切型にどっぷりと頼り切って自分の思考を委ねてしまうことの危うさ、と云うか間抜けさ加減を見てしまったりする(レッテルを貼られるような材料があるとすればそれはテキストとして表現されたご自分の言動だけだ、と云う事実に、oruteさんは最後まで気付けない様子だった)。

厄介な事態を引き起こしがちなのは、自分の中では議論の内容について中途半端な理解のままなのに、タグ付けを受け入れていることによって、なんだか完全に内容を把握し、自分で判断したような状態になってしまった時だと思う。

この状態がまさに、ネガティブなニュアンスでの「レッテル貼り」を行ってしまっている状態なのではないかなぁ、と思う。この状況では、特定のレッテルに対する論者間の共通認識が事実上成立していないし、そうなると議論を適切にメタ化してスムージングするための「レッテル貼り」のポジティブな機能が働かないことになる。

でもこれって逆に云うと、その相手になる論者がどれだけ誠実に議論に参加しているか、と云うのをその場でのレッテルの把握度で判断することができる、と云う話にもなるよなぁ。気をつけよう。ぶるぶる。

追記:
ちなみにニセ科学と云うネガティブなニュアンスを持つ「レッテル」については、そのニュアンスまで含めて菊池誠による定義が存在する。ぼくを含め継続的に批判を行っている人間が「ニセ科学」と云う用語を用いるときには、基本的にはこの定義を踏まえている、と考えてもらってもいいと思う。