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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

商売の領域

asahi.com「ニューエイジ」に警戒強めるバチカンの報告書邦訳と云う記事を読んで、apjさんの少し前のなぜニセ科学を批判するのかと云うエントリ(これもマスターピース)を思い出した。

asahi.comの記事では、ヴァチカンの発行した報告書『ニューエイジについてのキリスト教的考察』に、

 「ニューエイジの成功は、教会に対する挑戦ともなっています。人々は、キリスト教が自分たちの本当に必要とするものを与えてくれない(あるいは少なくとも与えてくれなかった)と感じています」。そのうえで、「人々の心の中のしばしば声を発することのない叫び声を理解すること」が必要と説いている。

と云うような内容が記載されている、としている。当の報告書の邦訳は読んでいないしそのあたり深入りするような議論も不用意にはできないのだけれど、要するにこれは「商売が全うできていなかったからライバルが台頭している」と云う云い方に読める。

と云うのは卑俗に過ぎる云い方に見えるかもしれないけど、商売、と云うのは個人または法人が社会に向けてなんらかの貢献をする術だ。ひとのこころになんらかの方向を与えるのは宗教に携わるものの商売。例えば、正しい科学に基づいて研究を行い、その成果の社会へのフィードバックを行うのが科学者の商売であるのと同様。

上掲したapjさんのエントリに、

・「正義」ではない。ニセ科学を批判することを裏付ける「正義」は、今のところ思いつかない。利害である。ただし、個人の存在と社会はつながっているから、この場合の個人の利害は自ずと公共性を持つ。個人の利害と社会は対立概念ではない。

と云う明解な記載がある。このブログで局地的に生じていた議論とも関わってくるけれど、ひとはその利害を通じて社会と関わり合う。本質的に、社会の利害と相反するかたちで個人の利害を追求することはできないはずだ。それは例えば商売が宗教でも、科学でも、ぼく(や大方のひとたち)が携わるようなふつうのビジネスの領域でも、同じことであるはずだと思う。