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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「語りたい」願望

三等兵さんにニセ科学を「教えたい」願望についてと云うエントリでリプライをいただいて、ちょっとだけ考えた。

実際のところこのリプライをいただいたエントリで、三等兵さんの云う聞き手の側の 「反科学的な欲求」と云う云い方にちょっとした違和感を感じたことを表明したんだけど、今回のリプライを読ませていただいて納得した部分があった。

つまるところ「世間の常識が間違っている」ということを発見して、「教えてやる」側に回りたいわけ。このモチベーションは、「教師」という人種ならばなおさらでしょう。

なるほど。
教師ってのは「日頃接している人間(こども)から『すっげえものをよく知ってる人間』と云う評価をされることが職業上のスキルとして必要」なひとたちだから、使えそうなものは何でも使いたいって欲望に駆られるのも無理はないのかも。でもそれってバッドノウハウって云うか、背任だよなぁ。

ところで、ブロゴスフィアに溢れる「水の結晶」系言説にも、同種の動機があるのではないか、なんて思ったりもする。要するに、

  • 万物は波動を持っている(これは物理学で云う波動と同じである。なぜなら言葉が同じだから)
  • 水は波動に敏感だ(なぜならぼくたちわたしたちの生活と地球にとって大事なものだから)
  • 人体も波動に左右される(なぜならぼくたちわたしたちの身体の70%は水だから)
  • 言葉には魂がある。魂は波動だから水に影響する。だからぼくたちわたしたちの身体にも「物理的に」影響する

って云うような紋切型の言説をネットに放流することで「何かを語っている」気分になって、それでなにかしら願望充足なり欲求発散なりができる、ということなのかも。

でもそれこそ、そう云う漠然とした発想を自分で文字にすることが「言霊」的な影響を本人に与える(自分の考え方を自分で規定してしまう)ってこともあるんじゃないかと思うんだけどなぁ。この種の言説をあたかも「自分の言葉」でもあるように(それもけっこうカジュアルに)書いてしまう、と云う風潮にも結構な危険が潜んでいるような気もするのだけれど。