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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

合理的な結論、不合理な結論

Wired Newsの感情が「理性より賢い」ときと云う記事を読んだ(翻訳前の原題はAre Emotions Prophetic?。「感情は預言的か?」くらいの感じなのかな)。

 こちらの翻訳記事ではおおむね感情理性が対置されているけれど、原文を見るとfeelingsとその受け皿になるemotions、それに対置されるものとしてのrationality(合理性、と云った感じなのかな)みたいな用語を用いて話が進められている。その意味で翻訳記事はとっつきやすく工夫されている、と云うことなのだろうけど、少しだけ混乱しがちな部分があるかもしれない。ここで云われている理性はたぶん科学的合理性に近いもので、感情はやや直観にちかいニュアンスを持つもの。

非合理的で衝動的だとして見下されてきたプロセスが、少なくともある条件下では、より「知的」であるかもしれないのだ。

この「知的」は、「よりよい選択をしうる」と云う感じの意味(smarterなので)。

予測対象になった事柄は多方面にわたっていたにもかかわらず、その結果はある共通する傾向を見せた。自分の感情を信じる傾向の強い被験者のほうが、結果を正確に予測する確率が高かったのだ。

この感情feelingsのほう。「感覚を信じて、そこから生じる感情を信じる」ってな意味合いかな。

こうした逆説的な効果はなぜ起こるのだろうか。答えは「処理能力」にありそうだ。近年、人間の「無意識」は大量の情報を同時に処理する能力を持ち、膨大なデータセットでも滞りなく分析できることが明らかになってきている(これに対し、人間の「理性」には非常に厳密な限界があり、一度に処理できるデータは常時わずか4ビット程度だ)。

では、無意識にはどうやったらアクセスできるのだろうか。そもそも無意識とは、その定義から来るように、「意識の外で」行われていることなのだ。

ここで鍵になるのが感情だ。

おそらくこう云うことはあって。
ユング的な発想が根っこにある人間からすると、このあたりの考え方はなじみやすい。人間の心の働きの中で意識化されているのはごく一部で、ひとの心の大半は意識されていない部分で活動している。人間が取得した情報のうち意識が処理しているのはごく一部で、大半は無意識によって処理される(ユング派の学説が科学的か、と云うといろいろと問題のあるところはあるのだけど、少なくとも「たとえ話」としてはそうとう緻密で有用性のあるものだと思っている)。合理性が意識の領域に属するものである以上、その処理能力は相対的に限界が低い、はず。

あらゆる感情はデータの要約、つまりわれわれが意識の上ではアクセスできないすべての情報処理を手早くまとめたようなものだ(ファム教授はこれを、感情は無意識の領域を覗き込むための「専用窓」のようなものだと表現している)。複雑な事象について予測を立てるときには、この余分な情報がしばしば重要になる。これが情報に基づく推測と、単なる偶然との違いだ。

ぼくたちの心は重要なものから些細なものまで、大量の情報をとりこんで処理する。とりあえず重要だとみなされて「合理的な判断」を行うための材料に回された情報が、ほんとうに事象のキーとなる情報なのかどうかはわからない(そして意識は、とりあえず重要とみなされた情報を処理するだけのキャパシティしか持たない)。
それでも取り込まれた情報は無意識が処理し、判断基準として投入される。場合によっては合理的な基準を伴わない、「感情的な判断」として(無意識から意識への情報の受け渡しが感情と云う形態をとる、と云うのは、これもまたユング的にはおなじみの理解。このへんじつは意図的に惹起することも可能なので、経験があれば感覚的にわかるのだけど、まぁあんまりお勧めしない)。

ただし、細切れの感情にただ依存すればいいというわけではない。上記の実験では、被験者たちは提示された株式相場のデータをすべて吸収する必要があった。

それと同様に、ファム教授の研究の被験者もまた、「感情によるお告げ効果」はある程度知識のある事柄においてしか得られなかったようだ。大学フットボールの知識を持たない被験者の場合、BCSナショナル・チャンピオンシップ・ゲームの結果の予測に感情は役立たなかった。

つまり、われわれの感情は愚かでも万能でもない。感情のお告げは不完全だ。しかし、それでも強い感情というものは、「たとえ何もわからないと思っているときでも、実は脳は何かを知っている」ということの知らせなのだ。

ひっくり返すと、「感情の伝える情報」を上手に受け取って意識の上で合理的に処理することができれば、「合理的判断」の引き出しは増える。これはかんたんなことではないにしろ、じっさいにはだれしもが日常的にやっている思考上の営為だ。もちろんそこのところの上手い下手はそれぞれだけれども。

で、意識が機能して一定の基準が設定された「合理的判断」は、外部化して共有することができる。体系化すれば、局面に応じて応用もできる。これを「学問」と呼ぶこともあるし、「科学」と呼ぶこともあるだろう。ひとによって取得できる情報・処理できる情報とその処理の結果に相違がある以上、あるインプットされた情報に対して一定の基準で「合理的判断」が下せる体系は重要だし、有用だ。

ただ、ここで「合理的でない判断」を必要以上に軽んじるのも、また間違っていて。それは精度は低くとも、よりキャパシティの大きいシステムによって処理された結果としてのアウトプットであり、それは多くの「合理的判断」を生み出す素材となる(時には「天啓」ともなりうる)ものなのだから。そうなると、結局は適切な取り扱い方、みたいな話になる。
なにしろ無意識の動きは自分自身でも感じ取れないし(意識にアプローチして来ないかぎりは。だから無意識と呼ぶわけなんだけど)、感情は共有できないから。もちろんひとの心の働きはそれぞれ同じ原理にもとづいてはいるけれど、その場その場で全員がつねに同じ機能を示す(おなじ結論を出す)わけではないので。

このへんはじつはニセ科学の議論においても重要な部分だとずっと考えていて。人間のこころの非合理的な部分の重要性。
ぼくはこう云うことをけっこう長い間ここで論じてきていて、ニセ科学の議論に継続的にコミットしている論者には、おそらく周縁部でそう云う議論も積み重ねられてきていることが認識されている、はず(もちろん評価はさまざまだろうけど、それほどつよい反駁をもらったこともない)。これだけでも、「ニセ科学を批判するものは科学を絶対視している」「ニセ科学に対する批判は科学教だ」的な論調がどれくらい的外れで、実情を知ろうとせず、あるいは実情に関する情報を遮断したうえでなされる(それこそ個人の「なまの感情」を一般化した)批判のための批判なのか、と云うことが示されている、と思っている。
こちらのエントリでの、locust0138さんへの反論も、近いニュアンスがあって。不合理なもの、と云うのもそうそう一筋縄ではいかないよ、的な話。

ところで。

予測の対象は、2008年に行われた大統領選の民主党予備選挙や、オーディション番組『アメリカン・アイドル』の決勝進出者、ダウ・ジョーンズ工業株価平均、大学フットボールのBCSナショナル・チャンピオンシップ・ゲームの勝者などだ。

この対象の選択は適切なのかなぁ。 株価とか「アメリカン・アイドル」の勝者って、そもそも複数人の感情に基づくけして合理的とは云えない判断が集合して下される結果だよね。ひょっとするとフットボールの結果にも、そう云う意味合いは含まれるよね。「複数の他者のかならずしも合理的とは云えない判断の結果を予測する」と云うことだったら、そもそも合理的な推論がいちばん有効な手法なのかどうか、微妙だよね。