Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

あしがかり -続き

前のエントリのコメント欄でzororiさんへのお返事を書いていたら長くなったので、エントリとして独立させる。

個人的利益の観点からは、他に有効な治療法がないのであれば、あまり効果が期待できない治療を続けることは合理的判断だと思います。命が無くなってしまえば、治療代がもったいないなんて言ってられないのですから、患者個人としては、費用対効果の点でも十分合理的でしょう。有害な治療、あるいは全く効果がないことが確実ならば非合理的ですが。

このことについては、まったく異論はない。

たぶん問題は、ぼくが「合理性」と云う言葉をあいまいに使っているところにあるのだろう、と思う。「公」の合理性と「私」の合理性、と云うのがあるんだろうな、と考えている、と云うか(きっと、これらをそれぞれ指し示す適切な用語があるんだろう。その用語を使えば、もっと伝わりやすく書けるのかも)。

医療の意義、と云うのをどう云う部分に認めるか、によって、医療を受ける個人にとっての医療の合理性と云うのは変わってくると思う。個人にとって、場合によっては代替医療ニセ科学、呪術でさえ合理的でありうる。病と云うものは一概に身体だけの問題である、と云うわけではないので。
ただ、個人にとっての合理性と「公」の合理性は、その実践において相反することがありうる。で、その場合は「公」の合理性が優先される(「公」と「私」と云うのはそう云う関係なので)。公の合理性に反する私の合理性は、公の側から見ると「非合理」となる。

でもじゃあ、つねに公の合理性が無条件に合理的か、と云うとそこはわからない。その公の合理性がなにに基づいているのか、と云うことで判断されなければならない。ある声の大きいひとたちにとっての合理性が公の合理性とみなされている、と云う場合も考えられるわけで。
そうすると、その判断はそれぞれのステイクホルダーにとって「他者」でありうるものを基準にするしかない。この「他者による合理性判断の基準」を近似として提供しうる、と云うのが科学の機能なんだろうなぁ、と云うのが、現時点でのぼくの捉え方、と云うことになる。

とまぁそう云うわけで、ぼくはTさんも治療にあたったお医者さんも、非合理な行動を取った、とは考えない。ただそれを「公」の合理性の観点に照らすと、非合理と判断されることもありうる、とは思う。このあたり、「公」の合理性と「私」の合理性が単純な二項対立ではなくて、実際には「わたし(たち)」の合理性と「あなた(たち)」の合理性のスケールの大小で差異化されるグラデーションのなかにある、と云うことなんだと思う。治療にあたったお医者さんの判断は、やはり「公」の合理性の基準によるものなので(基準が同じでも導きだされる判断には相違がありうる。基準を設けたからと云って、判断がつねに二分法的に明解になる、と云うことにはならない)。

ニセ科学に基づく医療が罪深いのは、だから「公」の判断基準として重要である科学を詐称している(もしくは同種の機能を保有していることを詐称している)、と云う部分にあるのだと思う。「私」にとって有効でありえ、そのことが「私」にとって合理的でありえても、その面だけから許容されるべきだ、と云うことにはならないのだ。