Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「外部にある」ことの意義

最近ここでごちゃごちゃ考えていたことを、地下に眠るMさんが体験によらない知識の重要さについて言っておくと云うエントリで実にすっきりと述べていらっしゃる(エントリの本題とは違うのと、ご迷惑になりそうなのでトラックバックなしで言及)。

しかし

西欧近代において、自然カガクの方法論が確立され、あらたな「共有」が可能になったのだと僕は考えていますにゃ。自然カガクによってあらたに共有されるようになったものとは何か。それは、「事実そのもの」と僕は考える。

そう、それは「真理」でも「真実」でもなく。これらは意味とか価値に属するものだから。

意味とか解釈とか、個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。

そりゃあ「水からの伝言」は人間味のある言説だろうにゃ。コトバは無機物にだって伝わるのが神話というものだにゃ。しかし、人間味のある、しっくり感のある言説だからこそ、それはカガクではにゃーわけだ。自然カガクのやり方ってのは、誰にとっても異物なのですにゃ。だから、専門訓練をつんだはずの研究者が人種的偏見にひっかかったりする事例なんかも珍しくもにゃーわけだ。人種差別ってのも「人間味」にあふれたものにゃんからね。

つまり、カガクの方法論というのは万人にとって異物であり他者であるのですにゃ。そしてそれゆえに普遍性をもち、人類にとって特別な地位をえているわけにゃんね。

この辺りはうちのコメント欄にお越しになる技術開発者さんの「人間の基本仕様論」と表裏一体だったりもするわけで。
地下に眠るMさんがおっしゃるとおり、科学と云う思考体系が重要である(そしてそれが機能している)理由のひとつは、それが原理的に万人にとって異物であり他者であると云うことだと思う。それは人間のナチュラルな営みの集積が生み出した(そしてそのなかで暮らしている)文化や社会規範と本源的には切り離されたものであり、それゆえに科学の本質はそれらと密接に関係している価値判断や倫理とは無縁だ。これらを直接科学に求めるのは筋違いだし、科学がそれらを裏付けてくれないことに対して恨み言を口にするのも的外れで。逆に云うと「それらを直接裏付けてくれる科学」があったらまずは疑うべき、だと云う話になる(当然ながら、これは例えば文化や社会規範を理解するために科学的アプローチを採用する意義を否定するものではない。云うまでもないと思うけど)。

もちろん科学も、ひとのなかから出て来たものには違いなくて。でもそれは、「外部」に立つことが可能な仕組みを獲得している。どの場所にいるひとから見ても同じものとして見える、外部に。
そう云うわけで、時折見かける「科学万能主義がいまの世の中を云々」みたいな言説を弄する手合いは、世の中を心配する前にまず、自分自身の(木に登りて魚を求む流の)思考の混濁を心配したほうがいいと思う。