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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「人間の基本仕様」について

「人間の基本仕様」と云う概念は、ニセ科学批判の文脈で援用されることが多い。これはうちのコメント欄にもいらっしゃる「技術開発者」と云うハンドルネームの方が提唱された、まぁこの文脈の中で用いられる概念で。いろんな学問分野で類似の概念が用いられている訳だけれど、ちょっとこの文脈ではそれに呼応した用いられ方をして来て、議論の中で意味合いが膨らんで来た部分がある。
ここだけじゃもちろんなくて、kikulogInterdisciplinaryをはじめとする複数のブログの、おもにコメント欄でこの概念は用いられて来た。

少し前のエントリのコメント欄で、とりあえずの概念のまとめにあたるようなコメントを主唱者である技術開発者さんからいただいた。ご本人の許諾を得たので、独立したエントリとしてコメント内容をあげさせていただく。目的は、その内容を(おもにぼくが、でもその限りでなく)引用可能にすること、である。

 それはまさに試行錯誤の中から生まれたものだろうと思うわけです。それを言ったのが「弓矢の工夫と狩りの祈り」という話で、「弓矢の工夫なんかしている暇があれば神様に祈れ」という部族は滅び、きちんと工夫したあげくに神様に祈って出かけた部族は生き延びて、その子孫が我々だろうとなんていう訳ですね。別に祈りを排除はしていなくて、工夫するのに邪魔になるような祈りを排除しているだけね。
 実のところ、例えば「不合理なことを信じて言いふらす奴」に対して「そんなのを信じてお前は馬鹿か」と馬鹿にするような事にも、実は「群れの中の優位性」という人間の基本仕様は働いている訳です。自分より何らかの面で劣る者を馬鹿にすることで「優位の確認」をする行為だからね。サルの群れで優位な個体が劣位の個体にグルーミングを求めるようなのと対して変わらないのですよ。実のところ、「不合理な事を言いふらす奴はみんなで馬鹿にする」みたいな部分も群れ全体に不合理が広がらないようにするために、人間の持つ「優位性の確認(これ自体も実は不合理な衝動ではあるのです)」を利用してきたという経緯があるのではないかと思うわけです。つまり、我々は自分自身の不合理性を嫌悪するあまり、文化として不合理性を利用して「不合理の蔓延を押さえる」というやり方を捨ててしまっているのではないかなんて考えている面があります。

実際この角度で考える、と云う発想によって、いくつもの事柄をぼくはなんとか理解して来たし、そう云う意味では多分今後も頻繁に援用させていただくことになる概念だと思う。もちろん現時点でもスタティックな概念ではないし、もともと複数の場所のコメント欄で鍛えられて来た概念なので、今後も議論の中で変化したり、広がったりすることはあり得る(と云うか、そうじゃないとちょっと困る)。その点でこれは、ここまでの議論の中での到達点と云うか、so far的なものだと思うけれど、でも可用性を高くしておくことには意義があると思ってエントリ化させていただいた。
快諾に感謝します>技術開発者さん