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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

空疎

exciteブログのシステムはよく分からない。論宅さんのニセ科学批判の前提と云うエントリに言及するためには、ソースをみて当該エントリに打たれた非表示のアンカーを掘り出して、そこにリンクすると云うやたらに面倒な手順を踏むことになる。いや、そう云う議論の仕方をしたくない、と云うことなのかもしれないけれど(議論じゃなくて放言だけしたい、と云うことなのかも)。

例の「室井」氏からトラックバックを受けてのエントリのようなんだけれど、どうもこの方のブログ、議論の流れを追うことが読者にできるように配慮されている部分があまりなくてひどく面倒な作業になる。ので、単体のエントリとして読む。

もしそれを本当に(社会)科学的に実証するのなら、社会学の知見を要することになる。まずは、測定可能なように「ニセ科学」という概念を定義し、聞き取りで質的調査を行い、それに基づき、項目を設定し、精緻な質問用紙をつくることになる。

いちおうは社会科学畑の人間として、この社会学の知見と云う言葉の意味が分からない。そこから続く説明は、どう考えても「知見」ではなくて「手法」についてに見える。ひょっとすると「手法を知っていると云う知見」と云う意味なのかな。

 「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という個々の命題が意識調査によって社会科学的に実証されないと、ニセ科学批判は、ニセ社会学に立脚していることになる。現在のところ、そのようなデータはないので、ニセ科学批判は全てニセ社会科学の域をでない。そのことについて、盲目である。

非常にこの方らしい冗語に満ちた見解ではある。

まず、調査は通常ある問題の認識から発した仮説に基づいて行われる。この仮説を設定するために必要なのが、通常の意味での「知見」なのだ、と云う話は抜きにしても、仮説に基づかない調査なんて効率の悪いことは通常あまり行われない。まず自らの知見に基づいて仮説を立て、それを実証するために調査を行うのが手順で、さらにそれに先立つのが問題の認識だ。
問題を認識している以上、そしてそれが実社会に及ぼしている影響を意識している以上、それに対して批判を行うと云う行動になんの齟齬もない。

まぁ社会学と云う言葉をブログタイトルにも掲げられていらっしゃる以上そんなことは百も承知で、おそらく単に「室井」氏に同意したいがために「知見の乏しさ」を装っていらっしゃると推定するのだけれど、この辺り以前から変わらない極めつけの不誠実さがほの見えて趣きぶかい。

「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という実証的データを見せてほしい。でないと、悪いが、やはり目くそ鼻くそを笑うになるのではないかと思う次第である。

見せてほしい、とはなかなかご立派な言い草ではある。自分で論客のつもりなのだったら、自分が反駁するための材料を他人に求めるのではなくて、まず自分自身の「問題」の把握を明らかにして、自分自身の「知見」に基づいた「仮説」を提示すべきだろう。そこまですれば、社会学の手法に基づいた実証を行ってくれなくても、議論のステージには乗ることができる。それが最初の一歩目だ。手法についてごちゃごちゃと御託を並べるのはそのあとで、議論の必要に応じた部分だけでいい。

いつもながら思うのだけど、このひとが社会学の徒を自らもって任ずることの厚顔さは、そのまま「社会学」と云う学問分野を泥で塗り込めようとする行為に見える。