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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

流行

mercaさんの疑似科学批判が流行る理由と云うエントリを読んだ。
と云うか、やっぱり現状は「流行」と捉えられてしまうのかなぁ。ニセ科学が存在し続ければ、対抗言論としての批判も同じく存在し続けると思うのだけれど。ここ半年程度多少目立っているので、流行り扱いされることもまぁ、あるのだろうけど。

 しかし、科学を絶対視する点においては、疑似科学もそれを批判する者も同じ観察点にいる。この盲点に自覚的な論客は少ない。

こう云うことを発言したがる方は多いけれど、「ニセ科学批判者による科学の絶対視」みたいな言葉を口にするにあたってその意味を充分に吟味している方は少ない。

多くの疑似科学批判論者は、疑似科学批判の背景には、科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理があることを理解していない。言い換えれば、自己の理論の前提に盲目なのである。

このような立ち位置で「ニセ科学批判」批判を行おうとする論者のほとんどは、この方に典型的に見られるように「ニセ科学批判者が何をもって『科学的である』としているか」と云う点について盲目なのはなぜだろう。
科学的である、と云うことはあくまで「方法において」科学的である、ということだ、と云うことを、多くの批判者はことあるごとに語っていると思うのだけれど。そしてその価値は、「盲目的に前提とすることが仕組み上なしえない」ところにある、と云う点について批判者は思索と検証を積み重ねて来たのだけれど。

実際のところ、多くのニセ科学批判は(直接的ではないにしろ)科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理に対して無自覚であるわけでも、当然のこととしているわけでもない。多くの場合、「ニセ科学批判はそのことを理解しないで行われるもの」と云うことを盲目的に前提にしているのが「『ニセ科学批判』批判者」であることに、なんとも云えない深い趣を感じる。