Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

問題の焦点

uumin3さんの科学の心と云うエントリを読んだのだけど。

似非科学を批判する類の記事に「これが成り立ったら物理法則が全部ひっくり返ってしまうぜ〜」みたいな書き方がされていました。

いきなりクリリン発動って気もするけど、おいらもこんなんとかこんなんとか書いてるしなぁ、とか思った。まぁ、元ネタになった檜山さんのところをお読みになったのかもしれないけれど。

 ここでは科学(というか物理学)の作っている世界観と似非科学と呼ばれるようなものが作っている世界観が対置され、片一方の支持はもう一方の否定といった構図が取られていますが、これは常に言えるものではないと考えます。言い方を変えますともっと科学(的思考)は柔軟だろうと、どんな事実をも否定せず飲み込んでしまうのが科学じゃなかったかと思えるのですが…

そりゃまぁ事実であれば否定できないし、その事実に対し既存の科学側に矛盾があればそれはもちろん既存の科学の方を修正するでしょうよ。事実であれば

世界観の対置とお書きになっているけれど、端的に「科学」と云う土俵で勝負しようとすると、世界観は「科学の世界観」でしかないわけで。「疑似科学の世界観」と云うのがある、と云うのなら、それはそれでいいけれどもとりたてて「科学」とは関係ないし、「科学の世界観」で評価されるべきものではなくて。だから、それを受け入れないのは、科学の懐が狭いからではないわけで。

水からの伝言」について云えば、話し言葉や書き言葉にあるらしい「波動」と云うようなものが水が凍る過程において影響する、と云う科学的事実があるとするならば、それはあらゆる水に関する実験において観測されるはずだ(そうでないとおかしい)。従って、波動をファクターとして考慮していない実験は、水の物理学的性質について決定的な要素を見落としていることになる。自然科学の歴史におけるすべての実験結果が否定されるわけだ。否定されるから疑似科学だ、と云うわけではなくて、そんな重要なファクターがこれまでのあらゆる水に関する実験の中で一度も見いだされていないのはおかしいでしょ? と云う話で。なんかいまさら引用するのもどうかと思うけれど、これについては田崎教授がすでにきっちりと解説をされている訳で。

もちろんすべてのニセ科学が「水からの伝言」ほどに分かりやすい構造を持っているわけではないけれど。
でも、ニセ科学が既存の科学に容れられないのは、けしてそれが科学の了見の狭さによるものではない、と云うのは理解してもらいたかったりする。