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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

責任の水準

medtoolsさんのメッセージの担い手としての代替医療と云うエントリを読んだ(と云うか、medtoolsさんのブログについては継続購読者なわけなんだけど)。

代替医療の問題についてこの場所で考え続けるのは、実は結構「やばい橋」のような気がしている。ひとつには実際のところ、ぼくがまだ気付いていない問題群がそのなかにまだ幾つもありそうな気がするからだけど、もうひとつあるのは、それが「感情の問題」でもあるからで。

代替医療を選択するひとは、多くの場合それが「感情を満たしてくれるから」と云うことをその選択の根拠にしているように見える。「最終的に命を救ってくれること」より「いまここで自分の気持ちを満たしてくれること」を重視しているような。これはもちろん考え方なのだけれど、でもそう云う理由があるために、多くの場合代替医療を選択するひとは通常の医療に対して批判的だ。
ただ、それは本当に公平なものなのか。

安全対策に要求されることがどんどん増えて、委員会が行き着いた結論は、「医師が治療行為をしなければ、合併症は減る」。

成功によって得られるものと、失敗によって失うもの。両者がだんだんと拮抗してきて、それがある閾値を越えたとき、方針は劇的に変わる。外科治療を要する患者さんは年々確実に増えているのに、大学では、治療件数を減らす方向に調整がなされつつある。

まぁ実際のところ、ひとびとが医療に求めるものが本当に「こころの満足」であれば、医療側も訴訟その他のリスクを冒して「いのちを救う」努力をする必要はなくなる。

それで本当にいいの?

何度も書いたが、医療が自然科学を根拠におかなければいけないのは、通常の医療が結果責任を負っているからだ。それが最優先だからだ。もちろん結果責任なんかよりも、自分の「こころが満たされる」ことを優先するのは勝手かも知れない。例えばちゃんと生きることが出来たかも知れない我が子の命を3日に縮めておいて、それを「幸せ」と呼ぶのも。医療がその水準で構わない、というなら。

動脈瘤破裂とか、くも膜下出血みたいな病気は、今はどこの病院も敬遠する。受けたら負け。何か手を出さないと死んでしまうけれど、何か手を出したら絶対に合併症がおきて、そもそもそれを避けることが原理的にできないから、トラブル必発。公式ルートでは絶対に転送断られてしまうから、部活の先輩後輩とか、同門会の名簿大活躍。

大病院が「議席」を減らして、代替医療がその分伸びて。「政府」がひっくり返ったとき、ハーブや漢方の人達、大動脈瘤破裂の治療とかちゃんとやってくれるんだろうか…。

実際の代替医療に従事しているひとたち、代替医療を支持しているひとたちは、この問いにどう答えるのだろう。

もちろん、通常の医療と同等の責任を負える高みにまで自らの手法を高めようと努力されている代替医療従事者の方もいらっしゃることは知っている。それについてはここでもとりあげて来た(これとかこれとか。)。
でも、多くの代替医療従事者・支持者は、上に引用したmedtoolzさんの問いに正面から答えられるだけの矜持を持っているのだろうか。