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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

いま、この時にも(「知ろうとすること。」早野龍五・糸井重里)

書評、と云うよりは、自分語りだけど。
知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

  • 作者: 早野 龍五
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/09/27
  • メディア: 文庫
東日本大震災、と云う大きな災いがあって。あまりにも大きくて、それはとても広い範囲に影響のグラデーションを広げることになって。 で、その影響のグラデーションのなかで、ぼくは長い間自分の置かれた位置を把握できなかった。近親者に身体的な被害を受けたものはいなかったし(ぼくの近い血族はおおむね関西から北九州に分布していて、東北に住んでいるぼくは例外的なのだ)、知人にしても生命を奪われたひとや深刻な被害を受けたひとはわずかだった。災いそのものはもちろん、自分の生活空間のすぐそばで起きたとてもひどいことだったけれど、そのなかでぼくはある水準でのサバイバー、みたいな場所に立つことになったのだ、といまは思う。絶対的な災害を前にして、日本中の(あるいは薄まりつつも世界中の)ひとたちがそれぞれの条件の違いで、それぞれ異なる位置づけとそれに対する認識をある程度明確に突きつけられる状況のなかでも、相対的にそれがわりあい苛烈な場所にぼくは置かれることになった。 当然、と云うと自分に甘い、と云うことになってしまうのかもしれないけれど、その立ち位置の客観的な把握はあまり簡単にはいかなかった。ぼくの発する言説に大した影響力なんかはないのは知ってはいても、自分の足元がしっかりしていないのを自覚できるような状況で、なにかを語ることが怖くなった。沿岸沿いに住んでいたひとたちと較べるとたいしたことはないのかもしれないけれど、やっぱり現に不便もあるし、不安も悲しみもある。ぼくの発話は、かならずそれらに影響される。それらから生じるエゴイズムが、かならずぼくの言葉には忍んでくる。 ぼくはここでわりあいと頻繁に、ニセ科学について語ってきた。ぼくのおこなってきた議論のコアは、外的な事実と内的な真実を分けて考えるべきこと、真実を大事にするためには事実を重んじるべきこと、だ。その議論に際して、現時点でもっとも信頼の置ける事実の近似として自然科学を捉えることが、ニセ科学に対する批判につながってきた、と云うのがこの場所のスタンスだった。 そして、それを行うためには、あまりにもぼく自身の内実がぐだぐだになっている自覚があった。 そもそも感情的な人間だ。ぼくの文体そのものもじっさいのところは情緒的なことがらを伝えるのに向いていて、冷静な(それこそ科学的な)議論には向かない。最初から自覚があったので、ここでニセ科学に触れるエントリを書くにあたっては、そのギャップはつねに意識的に制御してきた(ぼくの文章には、目的を超えたプロパガンダに向かってしまうリスクがつねにある)。そこいらあたりの言説のコントロールが難しい状況なので、おのずと表通りで発言できる(と自分で判断できる)内容には制限がかかる。震災以降ぼくが書いたのは、おおむね被災地の経済とひとのこころの問題についてと、災害を奇貨としてそこに政治的・経済的につけこもうとしているひとたちについての話(ここには、どさくさまぎれに影響範囲を拡大しようとするニセ科学について、も多少は入っていたけれども)。 いずれにせよ、ここが開店休業状態に近くなっていったのは、そういうことで。単純に、怯えていたってこと。 もちろん、同じような客観的な苦難、同じような内的な不安を抱えていても、ぼくのように黙るわけではないひとはいる。持っている専門的な知識に準拠して(その水準や方向性に応じて)事実についての発信を冷静に行っていこうとするひとたち、そこから考えていこうとするひとたちは、何人もいた。多かれ少なかれ、彼ら彼女らにも、ぼくにあったような不安や葛藤はあったはずだ。それでも、動いたひとたちはいた。 反面、ぼくが自分自身に対して恐れていたような言説を、そのままなしてしまったひとたちも少なくなかった。情緒に支配された積極的な発語を行うひとや、その発語を「拡散」することで共有してそこからなにかを得ようとするひと。そう云う状況にあるひとたちに制御を加えて、経済的、あるいは政治的になんらかの意図を実現しようとするひと(そういやエア御用なんて云う、後者のひとたちにとっては大変有用な概念もあったな)。 強い情緒に基づいた言説、その情緒の(でき得ればより広範な)共有を目的とする言説は、どうしてもより直接的に、より極端になっていく。極端なものほど強い印象を与えられるし、それが伝える相手にとってより身近で直接的な影響のあることがらであることを強調すれば、それだけ相手に響く。――いや、ほんとうにそうなのかは言い切れないのだけれど(広く届く静謐なことばもある。技術論的な意味でも)、どうしても怒りや悲しみなどの情緒を伝えようとする言葉はエスカレートしがちだ。そして、言説は発話したものの思考を、しばしば逆に縛りつける。エスカレートした自分のことばが、自分自身の「真実」を規定するようになってしまうことは珍しくない。それらのことばが共通する情緒を持つ人間同士のあいだで共有されれば、そのひとたちの裡にあるより先鋭化した「真実」が、より極端な(そして「事実」から乖離した)言説を生み出す。 そうして、多くの発話は(発話者の「真実」から発せられる)ジャンクになる。 このことばは、このような状況に向けられたものだと思う。 まず、状況が限定されている。より事実に近い情報を得るために、だれかの意見参考にする必要が、糸井重里自身に強くある状況。 その状況下で、スキャンダラスであり、脅かしている意見は、どのような背景から発せられているのか。なぜその意見は正義を語ったり、失礼であったりするのか。そして、その意見はどうしてユーモア(≒自他のふるまいに対する客観的な視点)を欠いているのか。 もちろん、伝え方だけで意見の内容を判断すること自体は、危うい。それでも伝え方から意図や言説の背景を類推することはできるし、そこからその意見をどう捉えるべきかについての(意見を参考にする側としての)アスペクトを定めることはできる。そこから複数の意見を援用して、たとえば事実がほしいならその把握に務めることは可能だ(この過程をまったく逆にすると、「おのれの内的な『真実』が他者の言説に接することを通じて強化されるプロセス」になる)。 この基準によって選ばれた意見が、事実として間違っていることもある。でもその「間違った事実」は、べつの「正しい事実」によって、いつかは上書きされる。
大切な判断をしなければいけないときは、必ず科学的に正しい側に立ちたい。
本書の帯にあるコピー。科学的に正しいと云うのは、この謂だ。ここで繰り返し述べてきたように、科学的な正しさは上書きされ得るものであり、またそれはひとの裡なる真実とは無関係に立っているものであるがゆえに、意義があるのだ。 本書は早野龍五と糸井重里の対談で構成されている。震災以降、福島第一原発事故に関連して行動してきた早野龍五の「事実」を、その経緯を見続けた糸井重里があらためて追う。そのなかから、発信するものとしての早野龍五の葛藤と決断、そして早野龍五の意見を参考にすべきとして選んだ糸井重里の判断、が立ち現れる。対談のなかで早野龍五が語るさまざまな事実についての情報とも併せ、本書の中にあるタイトルどおりの「知ろうとすること」についての(とりわけ序章とあとがきにある)示唆はいま現在でも、今後にわたっても有用なものだ、と思う。 震災から3年半、と云う刊行タイミングが適切であったのかどうか、は正直わからない。刊行がより早かったら、べつのインパクトがあったかもしれない。ただ、3年半分の早野龍五の行動の重みがなければこの(とてもとっつきやすい)スタイルによる記述はできなかっただろうし、いまでも震災と原発事故にまつわるぼくたちの「こころの問題」が解決されきったわけではないことを考えると、本書の刊行には大きな意義がある、と感じる。