読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ぼくらのように、凡庸な

みたもの、読んだもの

やっと仙台に来たので、「アクト・オブ・キリング」を見た。

見終わった時点で、強い衝撃を受けた、と云うわけではなかった。ただ、帰り道でいろいろ考えた。

社会正義、と云うものに対する認識を、たとえばぼく(や、おそらくこの国で暮らす比較的大きな割合の人間)と、この映画の監督であるジョシュア・オッペンハイマーはおそらくおおむね共有している。端的にぼくたちは「共産主義者であることが死に値する社会」が存在すべきだとは思っていないし、「共産主義者(と目した人間)を1,000人殺したことでいまも英雄扱いされる人間」を認めることはできない。

でもそれはたぶん、そのような倫理観を持つように育てられたからだ。ぼくたちがアンワルやヘルマンよりも道徳的な人間であるからでは、ない。

共産主義者であることは(それが無神論者であることをつねに意味するとすれば)インドネシアの国是であるパンチャシラのひとつめの条項に反することになる。この解釈が、かつての虐殺がいまも犯罪とはされていない大きな根拠のひとつだろう。「だから殺してもいい、殺すべきだ」と云う理解は逐語的にはパンチャシラの第2・第4・第5条項に明白に反するように見えるが、もちろん国是なんてその時点での社会的状況や為政者の都合で運用が変わってくるものだろうし、その角度からインドネシアと云う国家自体を非難することはあまり正当ではない(いまの日本社会に暮らすものが、その角度から他の社会を断罪するのは滑稽だ)。

あくまで、アンワルが伝えたい自分自身の姿をアンワル自身の発案と意向にもとづいて映画化する、と云うルールのなかで、オッペンハイマーのトラップが自律的に機能しはじめる。そのトラップがアンワルの心に変容をもたらしていくのは、おそらくはオッペンハイマーの意図どおりなのだろう。ただ、ここでオッペンハイマー自身も「おなじ舟に乗ってしまう」ことまでが、当初から意図としてあったのか、それはぼくにはわからない。

そう、ぼくには「撮られる」アンワルも「撮る」オッペンハイマーも、この映画の仕掛けのなかで「おなじ舟に乗ってしまった」ように見える。

かつてのおのれの所業を、ある時は加害者の側、あるときは被害者の側として再現しながら、アンワルの視点は変容していく。それは自らの倫理をさらに外側から見ることのできる客観的な視座の拡張でもあろうし、もっと直接的には想像力の獲得でもあるだろう。ただそれは単純に、「非人道的な野蛮人が己の反道徳性に気づき改悛していく」過程、ではない。アンワルの暮らすインドネシアの社会では、彼の大量殺人はいまなお「正義」であり、「反社会的な行為」ではないのだから。

明解に描かれているわけではないのでぼくの想像の範疇を超えないのだけれど、撮影の過程のどこかで、そのことがどんな意味を持つのか、にオッペンハイマー自身も気づきはじめたのではないか、みたいに感じる。終盤でカメラの向こうのオッペンハイマーに語りかけるアンワルの姿は、互いに心を許した友人に向けて、その衷心からの意見を求めているようにしか見えない。トラップは機能していても、それはもはやすべてがリアルタイムでのオッペンハイマーの意図にコントロールされているものではないだろう(逆に云うと、映像からにじみ出てくるアンワルとオッペンハイマーの親密さも、トラップの機能を妨げない)。正しい倫理観に基づいた社会から訪れた正義の人間が、不公正で人道的に堕落した社会の極悪非道な人間を断罪する、と云うような構図で、この映画は終わらない。オッペンハイマーはおそらく、自分がアンワルよりも道徳的に卓越している、と云う意識の位置に(撮影開始当初はともかく、クランクアップの時点では)単純に安住しているわけではないだろう。視座の拡張、と云う点では、アンワルに訪れた変容とオッペンハイマーに訪れた変容は等質のものだ。

たとえばぼくは、100万人の虐殺は許されるべからざるものだ、と明白に感じる。でもそれは基本的に、原則としてひとの命はその信条や地位を理由に奪われるべきではない、と云う道徳を(すくなくとも)建前としている社会に生まれ育ち、教育されてきたからだ。そのことだけを根拠にアンワルを非難する行為は、かつてのおのれの残虐さを誇るアンワルの姿と変わらない。1,000人を殺したアンワルは怪物ではあろうけれど、それでもなおかつ倫理的に凡庸だ。ちょうどぼくたちのように。

その凡庸さを乗り越えるために必要なのが、やっぱり想像力なんだろう。そして、彼我で共有しうる正義が獲得できるとすれば、それはぼくらの貧弱な想像力にもとづく逡巡の先にのみあるものなんだろう、と思う。アンワルが自らの凡庸さを乗り越え、その結果としての悔恨を得たように。

それでもなお、ぼくは「ひとの命がその信条や地位を理由に奪われる世界」はいやだし、それに類することがらすべてが世界から失われればいい、と思う。だからぼくは(そしてぼくと同じ社会に住み、おなじように感じている「あなた」がいるとすれば、あなたも)この思いをを単なる社会状況と教育によって刷り込まれた脆弱な「常識」に終わらせず、自分自身の力で鍛えていかなければいけないんだろうなぁ、と感じる。