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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

問いかた、問う意味、問う相手

WEDGE Infinityに掲載された、大阪大学CSCDの平川秀幸准教授による市民が「科学」に口を出せるか 福島原発事故から考える「科学技術コミュニケーション」と云う記事を読んだ。

この記事で書かれている内容、議論は、全体としては特段おかしなものではない。必要な議論だし、必要な問題提起だと思う。それでも端々に、どんな意図があってこんな記述になっているんだろう、みたいに感じる部分がある。どのようなかたちのインタビューで、どのように編集されたものであるのか、がわからないので、ちょっとへんかも、みたいに思える部分が果たして平川准教授の責任であるのかどうかははっきりしない。はっきりしないけど、気になるのでちょっと触れてみる。

2ページ目にあるこの部分。

例えば、今回の放射能汚染で「ゼロリスク」を求めるな、という専門家がいます。市民からすると、「ゼロリスク」=「今回事故以前の状態」に戻してほしいという言わば「原状回復要求」であり、それを真っ向から否定されることへの抵抗感があるでしょう。こうした内容を、私が以前に自身のHPで偶然書いていたのですが、今回の事故以降、ツイッターなどで広まっていました。「自分のモヤモヤしていたことが言葉になっていてすっきりした」というつぶやきがあり、まさに、市民側のコミュニケーターが不足していたのだと感じました。

ここいらのことに言及していた自然科学の専門家はだいたい、「ゼロリスク」を求めるなではなくて、「事実上ゼロリスクはない」と云うことを伝えようとしていたように思うのだけれど。市民からすると、「ゼロリスク」=「今回事故以前の状態」に戻してほしいという言わば「原状回復要求」であることを鑑みて、「原状」は「ゼロ」じゃないよ、と云うことを認識してもらうために。真っ向から否定って、できないことはできないよ、ってところから話を始めようとする、そう云う試みだったんじゃなかったのかなぁ。
だって、そこからじゃないと始まらない話もあるんだから。事故を起こした側の責任を問う、と云うこととは、また別の部分として。

3ページ目「科学」において市民の声を聞く必要性とは?と云う見出しで始まっている部分。

確かに、市民が出した答えが正しいとは限りません。しかし、政府が独断で下した政治的判断も、間違えることがあります。できる限り間違わないようにする努力をする一方で、失敗を受け入れるプロセスを経るためにも、市民とのやりとりは必要と感じます。排除すれば、それだけで「受け入れられなかった」と感じ、政府の判断が間違いと分かれば余計に反発を抱きます。まさに今回の一連の原発問題がそうでしょう。市民の声を聞いたうえで、反映できる点もできない点も、政府は真摯に説明する責任があります。

これ自体全面的に同意で、おかしなことをおっしゃっているとはまったく思わないのだけれど、べつだん「科学」においてって話になってないよね。政府が市民の声を聞く必要性がある、って話だよね(繰り返すけど、もちろんこれには同意)。この政府って云い方に、「政府の表明した見解に対して無条件で賛同する専門家」(=御用学者、「エア御用学者」)と云う含意があるのなら、まぁつながらなくもないけれど、だれになにを求めているのか、と云うのがよくわからなくなる。話の相手は政府でいいの?

原発事故以降、極端な思考や行動に走り、冷静な議論ができない「先鋭化」してしまった人たちがいます。彼らにもともとそういう傾向があったのかもしれませんが、同時に社会が彼らを「孤立」させてしまった側面もあると思います。放射能への不安を言語化できない、話を聞いてもらえない、頭ごなしに「ゼロリスク」を否定される…。

で、これも社会の話でいいの?
専門家とか「科学」の話はどこにいっちゃったんだろう。彼ら(とか、特定個人ではなくともアカデミアとか)の責任は問わないんだろうか。ただまぁここの部分は、2ページ目日本学術会議がまったく機能しなかったことについての批判をお書きになっているので、そこからつなげて読むのが正しいのかも知れないけれど。

私の同僚で、女川町や六ヶ所村原発に関して住民とのコミュニケーションを何年も続けていた人がいます。国や電力会社の一方的な説明会で罵声を浴びせるような人も、対話の場では実に普通に話をすると言っていました。

面識がある、ないを含めて、同様の行動を試みた(試みている)自然科学者をぼくは何人か知っているのだけれど、彼らはいまでもネット上の対話の場所で罵声を浴びせられてたりもするんだよね。ぼくの狭い観測範囲では、大阪大学CSCDには科学者はそれを受容すべき、と考える向きもいらっしゃるようなんだけど、そこのところはどうなのかな(現時点で平川准教授がそのへんのことについてどんなふうにお考えなのか、と云う部分については、ぼくは把握していない)。

こうした場を、制度や仕組みというよりも、文化として広めていきたい。10年、20年スパンの時間がかかるけれども、実現していきたいと思います。

これはもちろん望ましいことだと思うし、実現していきたいと云っていただけるのは心強い。でもだからこそ(貧困な読解力しか持っていない身としては)云い方は悪いけれどもなんとなくあちこちに著述の詐術、みたいなのがほの見えるのが気になってしまう。結局、実現のためにどんな方法を取っていくのか、と云うことと直結する部分だ、と思うので。

# それはそれとして、たとえ科学的には不合理なことがらでも「そう感じてしまう」のは避けられないし、そのことを単に合理的ではない、と云う理由で退けてしまうのは適切じゃない、と云う点では、ニセ科学の問題を扱う場合と同じだ、みたいには思う。だから便利なレッテルで空中戦を仕掛け合うんじゃなくて、ちゃんと議論の基盤(それはことばの意味についての解釈、みたいなところから始まって)の共有から始めようよ、みたいな話なんだけど。

# このへん、早稲田大学政治経済学術院の井上智洋氏によるテキスト(経済倫理学と行動経済学から見た原発問題(PDF)みたいな論考なんかがもちろん重要だ、と思う。