Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

目前の問題と、遥かな要因

正直に云うと、書けなくなっている。と云うか、身近にあって話題的に個人的な感想の域を出ずにすむものについてはいくらか書けたりはするのだけど、すこしそこから離れて、「情報の受け手」としてのスタンスでなんらかの意見を述べる、みたいなものは難しい。複数の原因があって、いまいる自分がそれほどパワフルではない、と云う話なのだけれど、口を開くことで背負いきれないものが生じる可能性のあることがらについては、結局こわくて口をつぐむことになる。

まぁ、ぼくごときが口をつぐんでいても大勢に影響はないのだけれど、そんな状況のなかで榎木英介さんのコミュニケーションを担うのは誰かと云うエントリを読んだ。

 この状況で口を開くのはおそろしい。その意味で、例えばこの状況をビジネスチャンスとして活用する気概と極太の神経を見せつけてくれるニセ科学商売のみなさまには若干感服しないでもないけど、まぁそれはこの分野の周辺に遍在する本質的な無責任さの発露なんだろうな、みたいに思う(思いながらも、やっぱり書けない)。その意味で、ひごろ近いスタンスにありながらもみんな被ばくしていたみたいなエントリを公開したOSATOさんのハートの勁さには、ちょっと敬服したりもする。

例えば福島第一原発に関する話題についてはkikulogがちょっとした情報集積所みたいになったりもしていて、おかげで菊池誠は御用学者でモサドでなんちゃって左翼でネオコン、みたいな愉快なレッテルをコレクションすることになったりしていたのだけど、これはこれで彼が相応に「発信する科学者」としてこれまで行動してきたからできた部分はあるのだろう、と思う。そう云う位置に結果的に立つことになったことはいくらか自業自得でもあって(ってえのはまぁひどい云い方だけど)、だからと云ってそれはもちろん望ましいことでも、楽しいことでもなかっただろう。
そして、その役回りを買って出ることをだれかに期待するのは、やっぱり難しいことではあるだろう、と思う。なにを根拠にそれを背負わせる? ノーブレス・オブリージュ

とりあえずまぁ思うのは、こんなふうに考えなきゃいけない状況がある現状では、大局的に見てぼくらはみんなしなくてもいい損をしているのではないか、と云うこと。

「サイエンス・コミュニケーターは職ではなく役割である」と言われるが、もし、中間者が切実に世の中に求められているのなら、その必要性に見合うだけの地位や権限を、必要だと思う人達が与えるべきではないか…
ボランティア中心のサイエンス・コミュニケーションが脆弱さを超え、公共を担う存在になるためには、「飯を食う」ことにも向きあう必要があるのではないかとも思う。

このことは、結果的には関係する人間(サイエンス・コミュニケーターのひとたちも、無償でその役割を担うことになってしまったひとたちも、そして情報の受け手としてのぼくたちも)すべてが得をする話のはずだ、みたいに感じる。

ただもちろん(榎木さんがお書きの内容を含めた)そこに伴う困難さ、と云うのもあるのだろう。と云うことはわかる。ぼくはここで内田麻理香について批判めいたことを書いたりしたこともあるのだけど(こっちとかね)、もちろんそれが例えば彼女の心得え方みたいな部分にひとえに問題がある、みたいなことじゃなくて、サイエンス・コミュニケーターと云う存在をめぐる社会的な環境の難しさ、みたいなものが大きく影響しているのはわかっている。受け手側にある問題、と云うか。

それってどうやったってすぐに解決できるような話じゃないよなぁ。でも問題はまさにいま、目の前にあるんだよなぁ。