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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ゆるがせにすべきではないこと(「科学との正しい付き合い方」内田麻理香)

ひと/本

へんな話だけど、この本を読まなきゃ、とはそれほど思っていなかった。

科学との正しい付き合い方 (DIS+COVERサイエンス)

科学との正しい付き合い方 (DIS+COVERサイエンス)

でも、ネット上でいくつかの書評を見て、ちょっと思い直した。
この本の本来の対象読者は、たぶんぼくみたいな人間なんだろうな、と思ったので。

ニセ科学に関する議論のはじっこのほうでそこそこのあいだうろうろしているにも関わらず、ぼくぐらい「科学」と云うものに対する理解を欠いている人間もそうはいないだろう(もうこれは認めてしまえば能力的な問題で、そこには忸怩たるものがないわけでもないのだけれど)。本書でも主要なテーマとして掲げられている「科学リテラシー」と云うものについても、いまだそれがどんなものを指すのか、と云うことについて明瞭な理解を持っていない(ついでに云うと、あまりそこにはっきりした共通理解が生じていると思えないような場で、このことばが一種の紋切型として使われているように感じられる現状に対する違和感もまだ払拭できていない)。

でまぁ、目次を開いてみる。初級編、中級編、上級編に分かれている。なんでなんだろう。例えばぼくぐらいの人間は中級編あたりまで理解すればいい、とか云うようなことなのだろうか。読み進めると、たしかに上級編なんかで書かれていることはぼくみたいな市井の(「科学リテラシー」を欠いた)人間に向けて書かれたものではなくて、アカデミアなりマスメディアのなかにいる、それなりに職業的に科学と云うものに接しているひとたちに向けた内容のように読める。
あれ? じゃあ「読まなきゃいけないかも」とか思ったぼくは、勘違いをしていたのか?

こう云う「この本ってだれに読ませようとして書かれてるんだろう」的な感覚は、読中何度もあたまのなかをよぎった。まぁそうは云っても、著者の想定している読者層に自分があてはまらなくて、そこに期待したものがなさそうだからといって、なにか文句を云うのは筋違いとも云える(だから極力、そう云う書物は見極めて読まないようにしている。限られた時間とおこづかいしか自由にならない身である以上)。初級編・中級編のあたりには納得のいく議論も展開されていたので、サイエンス・コミュニケーターのみなさんが考えている対象者には、ぼくのような人間もまったくはいっていないわけではないのかな、とも感じたりした。

ただ、2点。
一部では取りざたされているようにも見受けられる、「科学教」や「狂信」と云う用語。刺激的な用語のほうが伝わりやすい、と云う意図があったのだろうけど、この書物がぼくのような「科学リテラシー」に難のある層に向けて書かれたものであるとしたら、これらのことばの使い方はやはりあまりにも不用意なもの、だと思う。
ぼくらには権威が必要だ。ただしそれは信仰の対象、としてではなく、あることがらを判断するにあたっての寄る辺、として。専門性を持った権威に頼ることができなければ、ぼくたちはすべてを1から考える、と云う非現実的に不経済な暮らしを送らざるをえなくなる。だから、じっさいに必要なのは例えば科学信仰を取り沙汰することではなく、その権威がはたして信じるに値するものなのかどうか、を懐疑的に判断する能力なのだ、とぼくは考えている(し、主張してきた)。
本書で触れられている、「ノーベル賞フィールズ賞受賞者による事業仕分けに対する緊急声明と科学技術予算をめぐる緊急討論会」に問題があったとすれば、それは科学に対する狂信ではなく、権威というものの捉えかたと使われかた、にあったのだと思う。同書内で触れられている、現実社会と隔絶した場所で成立している権威、と云うものが、問題の起点なのではないか。もし本書がタイトルのとおりに、ぼくのようにだれかに「科学との正しいつきあいかた」を学ばなければいけないとか感じているような科学リテラシー弱者を対象としているのだったら、この書きようは(仮に意図的なものであっても)あまりにもミスリーディングなのではないか。

もう1点は、「科学」と「物語」の関わりあいについての把握の部分。
科学は、世界を把握するためのメソッドのひとつだ。ここで著者の云う「物語」がぼくらの生きている実在論的な世界を舞台としているのなら、どのような物語にも科学的な要素は含まれていて当然だ、と思う(それが仮に神話であれ)。ただ、科学と云うメソッドは、その性格上みずから物語に寄り添うことはない。物語がそれを科学の側に要請するのは、あきらかに錯誤の一歩目となる。

本論のあいだにはさまれたコラムのひとつに、「エントロピー増大の法則」と題されたものがある。ここからぼくが読み取る著者の姿勢は、あきらかに科学を、比喩と云う物語に寄り添わせようとするものだ。そしてそれは、「水からの伝言」をはじめとする各種のニセ科学的「波動」言説や、量子力学的根拠をうたう各種の代替医療なんかの背景にある発想とおなじものだ。

コミュニケーションの場を職業とするものは、たしかにある種の「ゆるさ」が求められる場合もあるだろう。いわゆる「コミュニケーション能力」とか云う(多くの場合言説による他者支配能力の美名として使われる)ものなのかもしれない。ただそれは、そこにあるミッションが「科学」を伝えることにある場合には致命的な瑕疵となりうるものではないか、とも感じる。まぁこのあたり、a-geminiさんの評(本編および補足)に書かれているようなこととも関わってくるのだけれど。

サイエンス・コミュニケーターと云う場所にあって、著者も(自ら云うところの)「科学技術のマニア」「科学技術に関心の低い普通の人」のはざかいで揺れ動く部分があるのかもしれないな、と思う。でも、ゆるがせにすべきではない部分もあるのではないか、とも思ったのだった。まぁ1時間程度で読めたので(おこづかいに対する影響は別として)それほど損した、とは感じなかったけれど。