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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「科学リテラシー」と云うことば

filinionさんの本当に一般人に科学常識は必要なのか。と云うエントリが最近のこの種の話題の嚆矢、と云うことになるのかなとか思っているのだけれど、科学リテラシー、と云うことに関して書かれたいくつかのエントリを読んだ。
で、思ったこと。

科学リテラシー。直訳すると「科学に関することがらについての読み書き能力」。
正直、このことばがどんなものを示しているのかはぼくにはよくわからない。「ある」「ない」と云うような軸を立てた評価が可能なものなのかどうか、と云う1点においてさえ。

科学的なことがらに触れたときにその内容を理解する能力、と云うことだとすれば、それは単純に科学的な素養とかそう云うものを示す、と云うように受け取れてしまう。で、素養、と云い換えられうるものだとすれば、それは日常的に「ある」「ない」で語られるものでもあり、逆に実際には「ある」「ない」で(正確には)語りえない、と云うようなものでは、たしかにある。

そう云うわけでじっさいのところ科学リテラシー、と云うことばは一部で科学的素養と云う意味で用いられているのではないか、と云うようにも思う。誤用かどうかと云うとそれはたぶん誤用で、それが(「ある」「ない」を論じる程度の重みしか与えられない)日常の会話において問題にならないとしても、ではどうすべきか、みたいな部分をある程度の具体性をもって議論しようとすれば、きっとこのあたりの峻別は必要になってくるのではないかなぁ、みたいに思ったりはする。議論の場所をSeinに置くのか、Sollenに踏み出すのか、みたいなあたり(ごめんなさい。これはちょっと適当なことを云っています)。

さてこのへんで急に手元に引き戻すけど、科学リテラシーと云うことばがどんなものを指すにせよ、たぶんぼくはそれを持ち合わせていない。この場所で3年もニセ科学がどうとかくっちゃべってるくせになにを云いだすのやら、とか思われそうだけれど、どうもあやしいぞ、と感じたものをじっさいに専門性のある科学的な知見に照らし合わせて明確に判断する能力はない(そのへんはこっちで書いたとおり)。
ぼくに科学リテラシーがないのは根本的にはまずぼくの頭のできのせいだと思っているけれど、それを学ばなかった、と云うのもあるんだと思う(学ぶ機会はあったけど、ぼけっとしていて気付かなかった可能性も高い)。でも、科学リテラシーがないとニセ科学は絶対に判別できないんだろうか、その被害(被害と云ってもまぁいろんな水準があるにせよ)を回避することはできないのだろうか、と云うのが結局ぼくの問題意識で。

で、ぼくは「できるはずだ」と云う認識のもとにいろんなケーススタディを積み重ねているつもり。自分の身の回りを見回して、そのうえで「科学」と云うものがどう云うものか、と云うことを認識しておくことで、ニセ科学の被害から身をかわすことはできるはず。じゃあどんなことを知っておくべきか。

  1. 科学は、ひとがものごとを考えるにあたっての、科学と云うひとつのメソッドでしかないこと。それは万能ではなく、唯一でもない。すべての問題を解決してくれるわけではない。
    • 「万能ではない」≠「有用ではない」。万能をうたうものは、その時点で疑うべき。
    • 「唯一ではない」≠「ある『唯一』を標榜するものより劣っている」。メソッドは複数あっていいし、用途を判断して適切なメソッドを用いるのはひとえに矛盾ではない。
  2. 科学と云うメソッドは、その結論が共有可能である、と云う1点において重要であること。「科学的に正しい」ことは単に「科学的に」正しいだけだけれども(例えば道徳的にどうか、と云うことはわからないけれども)、その範囲においてはだれにとっても同様に「科学的に正しい」。
    • 逆に云うとこの意味での「共有可能」を志向するのが科学と云うメソッドなので、例えば「意識次元が高い目覚めたひと限定」みたいな言説はその時点で少なくとも「科学的に正しい」ものではない。
    • 「科学的に正しい」かどうかが、「正しい」かどうかを判断する唯一の方法ではない。そしてそのことは、科学の瑕疵ではない。

極論すると、この2点を認識するだけで、最低限は事足りるのではないかなぁ、と考えている(もちろん、認識したうえでまず自分の頭で考えてみる、と云うのは前提)。たぶんこの程度のことは「科学リテラシー」とは呼ばれないんじゃないかな、と思うけれど、どうかな。
もちろん実際にこれらの認識をどう運用するか、個々の事例に対してどう適用するか、と云うと話はそう単純なものにはならなくて。でもまぁ、そのへんについてはそれなりの量のケーススタディを提供しているつもりではあるのだった。