Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

JBpressに掲載された長野修氏のコラムについて

JBpressの長野修氏によるホメオパシー記事のふたつめ、何のためのホメオパシーか 西洋医学が見放した人を前に、それでもノーと言えるかが公開された(ひとつめの記事は自然治癒力を高める「ホメオパシー」欧米からやって来た代替医療が日本で静かなブームと云うタイトルで9/2付で公開されている)。もうそこそこ話題になっているけれど、これらの内容が容認しがたいので言及してみる。語調がいつもと違うかもしれないけど、ご容赦を。

ホメオパシーの問題点と云うのは複数の角度から挙げられていて、そのあたりはここのサイドバーからもリンクしているlets_skepticさんのホメオパシーFAQに詳しい。賛否両論含めた議論の場としては上に挙げた長野氏の9/2付の記事を題材にしたkikulogのホメオパシーは世界で最も安全な医療?と云うエントリが現時点で活発。
細かい議論はこれらを参照していただくとして、ホメオパシーの持つ実害の部分をぼく個人の視点からひじょうにざっくりと簡略化すると、下記ふたつになると思う。

  1. それそのものに効果がない
    • 作用機序が否定されている
    • 疫学面でも効果が証明されていない
  2. 通常の医療を否定する性向がある

このあたりが前提となるぼくの把握。
で、長野氏がそのコラムで書いている内容はどうか。

 確かに、化学薬剤のように明確な作用機序はないし、エビデンスが整っているわけでもない。しかし、あえて今回取り上げたのは、長年にわたって世界で多くの人が用いてきた伝承医療であり代替医療だからだ。

 その是非については、個々が判断していただくとして、「こういう医療もあるよ」という1つの選択肢として認知しておくことは、意味があると考えたからだ。

だれにとって意味があると考えたのかを、長野氏はまず明解にしない。文脈の流れ、ではなくて、このあたりのおそらく意図的な不明瞭さが、全体のトーンをかたちづくる。

 もちろんそこに潜む危険性に対しては、常に目を光らせておかねばならない。それは、患者の弱みにつけ込んだ金儲け至上主義である。「がんが治る」という謳い文句を打ち上げて、サプリメントを売りさばく業者がいることは、残念ながら事実である。

 だけれども、それでも、伝承医療や代替医療と呼ばれているものが無価値であるかというと、そうは思わない。

常に目を光らせておかねばならないと云いつつ具体的にどう目を光らせるのか、目を光らせると云うのはどうすることなのか、について書いていないのは、だけれどもと云う逆説でつないで以降に述べられている内容と、その漠然さ加減においてひき合う。要するに「そう云う問題があることは知らないわけではないけど、細けぇことはいいんだよ!」と云うことを表現したいのだと思う。

 西洋医学的な発想からだけ医療の価値を計れば、作用機序やエビデンスが薄いものは意味がないのは当然だが、医療というのは、作用機序やエビデンスだけで推し量られるものではない。

このこと自体には同意するけれど、それは通常医療の原理的な瑕疵ではない。

医療というのは、作用機序やエビデンスだけで推し量られるものではない。と云うことについてはずいぶん以前に考えたことがあって、osakaecoさんの示唆からこんなエントリを、続いてNATROM先生の考察を借りてこんなエントリを書いたりした。なので、ここだけを抜き書きすれば異論はない。
ただ逆に云うと、どうして通常の医療において作用機序やエビデンスが重視されているのか、と云う話にもなる。医療ジャーナリストと云う肩書きを名乗る以上長野氏がそこまで考えていない、と云うことはありえないはずで、そうするとそのあたりを論述上無視している点についてはなんらかの意図を読み取ることができると思う。

 例えば、鍼にしても、その柱となる概念の「気の流れ」というのは、いまだにはっきりした実体としては解明されてはいない。けれどもなぜか鍼を打つと痛みが和らいだり、症状が改善することを、多くの人が「実感」しているからこそ、これだけ広く日本にも定着しているはずなのだ。

鍼灸や漢方などの東洋医学ホメオパシーの決定的な差異は、まずは現時点で医学的・疫学的なステージに乗ることをよしとしているかどうか、と云うところにあるわけで(事実上のエビデンスの有無、と云うのも大きいけれど)、両者を「代替医療」と云うくくりのもとに同様に扱うのはおかしい。現時点で作用機序が不明なものと、作用機序が否定されているものは別だ。このあたりを混同して二分法的に断じる論法は、ニセ科学を支持するあまたの言説と同質のものに思える。

 伝承医療や代替医療のリスクは、できるだけ少なくしなければならない。そのためには、その医療を万能のように考えることなく、近代西洋医学と併用して、客観的に見る必要がある。

こう書くことで、前のコラムやこのコラムにおける自分の記述を客観的に見たもののように印象づけようとしているわけで、これはまぁ書きようとしては小ずるい。

 だからこそ、今回の取材先は、いわゆる西洋医学を学んできた医学部卒の医者が所属する日本ホメオパシー医学会(※日本ホメオパシー医学協会とは異なる)のメンバーにしたのだ。ここが、ホメオパシーだけを医療方法とする人とは、違う。

 余談だが、日本ホメオパシー医学会の理事長を務める帯津良一先生は、この「医療最前線」の22回と23回でも紹介したが、元々は西洋医学一辺倒の医者だった。

その理事長さんは、マイナスイオンのひとやサムシング・グレートのひとや「水からの伝言」のひとや本物のひとが理事や役員に名前をつらねている、ニセ科学梁山泊とも云えるサトルエネルギー学会の会長さんですね。

 どの症状に有効か、ということを書いたが、厳密に言うとこれは正しくない。というのは、ホメオパシーは症状そのものをピンポイントで狙い撃ちして改善するというよりも、その人全体の気質や体質や性質に作用して、同種の原理によってアンバランスを是正し自然治癒力を高めるという考え方なので、全体的に改善されるのだ。

これではまるで通常の医療がその人全体の気質や体質や性質を無視していると云っているように読めるけれど、そんなわけないじゃん。どのお医者さんだって診察はするよ? その診察が充分か、ピンポイントでの対処だけでいいのか、と云う議論はもちろんあると思う。でもそれは通常の医療の持つ問題点と云うよりはリソースの、もっと身も蓋もなく云えばヒトとカネの問題であって。

ついでに云うと、通常の医療が科学を背景にしていること、作用機序やエビデンスを重視していることは、このリソースの問題にも関連してくる。現有するリソースでもっとも効果的な治療を実施するための手法、そのためのうしろだてとして、これらが必要とされているわけだ。「医療ジャーナリスト」を名乗って恥じないくらいだから、この国の医療の(財政面を含めた)現状を踏まえたうえでこの程度のことは理解していないとまずいと思うけれど、逆に理解したうえでこんなコラムを書いているのだとしたら許容する余地はない。

通常の医療を受けて、さらにあまったお金で趣味のホメオパシーをたしなむのは個人の勝手で。云ってしまえばホメオパシーに傾倒して自分を害するような場合にも、傍からはどうこう云う筋合いはない、と云うのも云えて。ただそこにロハスだの自然だのなすびだのへちまだの理屈をくっつけて「正しいおこない」だと思い込んでまわりに勧めたり、自分の子供に適用したり(これについてはkumicitさんのところの自分の生後9か月の娘を死なせたホメオパシー医と云うエントリで血も凍るような事例が挙げられている)するようなことがあると、これは「本人の勝手」の範疇を超える。

その意味で、長野氏が「医療ジャーナリスト」の肩書きを名乗って「こういう医療もあるよ」という1つの選択肢として認知しておくことは、意味があると云うような安易な判断のもとにこう云う記事を公開するのは問題だと思う。
溺れるものは藁をもつかむ、かもしれない。だからと云って、藁だとわかっているものをロープに代えて溺れるものに差し出す行為は正当だ、とでも主張するのか。ロープは切れてしまう可能性があるし、かならず溺れるものを助けられるとは限らないけれど、少なくとも藁ではないし、より頑丈にすべく、より多くの海辺に行き渡るべく研究が続けられている。「切れてしまう可能性があるなら藁もロープも同じだ」と長野氏は考えているのだろうか。その考え方は、溺れるものが救われるために意義のある言説を発すべき立場にあるはずの「医療ジャーナリスト」としてどうか。

その是非については、個々が判断していただくとしてみたいな、全体に判断を読み手に投げ出すような書き方も最悪だ。要するに長野氏は藁とロープを並べて、藁の効能書きを並べ立てたうえで「選ぶのはあなたです。わたしは知りません」と云っているわけだ。それが「医療ジャーナリスト」の仕事ですか?

 ホメオパシーについては、まだまだ疑問や謎や質問したことは多いのだが、ひとまずここで筆をおく。いずれにしても、ホメオパシーをどのように捉えるかは、個々の判断にお任せしたい。

それでも筆にしたんだからな。もしこの記事を読んでわざわざ藁をつかむようなひとが出るようなら、最低限その分の責任は持てよ、「医療ジャーナリスト」。