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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

位相と混同

摸捫窩さんによる草木が物言う国にてと云うエントリを読んだ。亀@渋研Xさんの【FAQ】ニセ科学はなくならない:バクスター効果を例にと云うエントリを受けた内容。

そもそも我が国は「草木みな能く言語」訳ですし、墨染め桜、飛び梅を始め、人の心を察した伝説昔話の類は数知れず、また実際もつい最近までは、果実が沢山なるよう植物を脅したり褒めたりしてきた訳です。まあ、単に擬人化の程度といったことなのかもしれませんが。何れにせよ、このようなお話を、科学とは異なる位相で受け入れてしまうといったことがあるように思えます。

わが国だけかどうかはわからないけれど、おっしゃることは日本人のひとりとして理解できる。と云うか、まぁぼくやぼくの周囲(や観察範囲)の人間はおおむね多少なりともおっしゃるような心情を抱いている。うちの母親なんか犬や猫はおろか無生物にまで「このひと」と云う三人称代名詞を使ったりする(これはうちの母親が変なだけか)。
それはそれでいいのだと思うし、批判されるべきことだとは(まったく)思わない。そのことを科学とは異なる位相で受け入れるぶんには、そう云う心理があるのだ、と云うだけの話だと思う。そして、そう云う心理があることが、ぼくらの生活に多少なりともうるおいをもたらすいろいろなものものの源となる。

ひとの心理は、そう云うものを求める。本来はつながりのないはずの事柄に因果を見出し、その因果にのっとることで望ましい結果を導き出そうとする。このあたりは「人間の基本仕様」と云う用語を絡めてこことかこことかで触れたりした。関連するあたりで、こう云う心情が日常に落とし込まれた場合のお話が黒猫亭さんの猫の名附けは難しいと云うエントリの内容になるんだろうと思うし、そのあたりの心理について述べられたものとしては最近ではKumicitさんのやっぱり人間の心は創造論を信じるような実装になっていると云うエントリもあった。

ただ実際のところ、例えば科学にもとづく農業技術(とその成果となる収穫、そこから生まれる安定した食料供給)を捨てて、声がけによる収量確保に頼るのはむずかしい。植物に話しかけることが成果に結びつくこともありえるけど、それは前のエントリで触れたnakayayadoさんのお師匠さんがおっしゃるような理路で、だと思う。
問題が生じるとすれば、それが科学とは異なる位相にあることだ、と云う認識がゆらぐ場合、だと思うのだ。

キリスト教では割と人間とそれ以外を截然と分離するので、バクスター効果のような主張は、その異質性が私達が考えるよりも大きく、より「科学」としての体裁が求められたという事があるのでは、などと考えています。

いや、それでも「科学」としての体裁は、わが国においてもビジネスになったり教育に取り入れられるくらいには、信頼を醸成する効果があった、とは云えるのではないかと思うけれど。