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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

プレゼンテーションと制約

y9rainさんのゲーム考と云うエントリを読んだ。ゲームとゲーム脳についてお書きなのだけれど。

一昔前、「ゲーム脳」というのが少し流行り(?)ました。簡単に言うと「ゲームやると脳に悪影響与えるぞー」ということなんだけれど、その根拠を示す論文等はナシ。提唱者の森昭雄医学博士がその著書で述べているのみなのですねー。

マスコミ受けはいい一方で、根拠があいまいなもんだから、いわゆる「ニセ科学」として叩かれたりもしてます。ただ、この森博士が講演やると今でも結構な人数を集められるらしい。


「科学」というよくわからんものを一般の人にわかーりやすく伝える、そういう話し方が上手いんじゃないかと思う。じゃなきゃ「ゲーム脳」なんちゅー教育ママが食いつきそうな話題だけじゃ人は集められないんじゃなかろうか。

こう云うのっていつも話題になるけど、難しい部分だよなぁ、とか思う。

難しいことをわかりやすく伝えるのは難しい(あたりまえで、だって「難しいこと」なんだから)。で、世情として強烈なわかりやすさ志向、紋切型志向と云うのがある(このへんに対する問題意識がぼくがニセ科学への批判にコミットしだした動機の原点あたりにあって、こんなエントリとかこんなエントリを書いたりしている)。わかりやすさを求める志向は、騙されるリスクを高めることになる。

y9rainさんのおっしゃるとおり、ゲーム脳言説の流布については、その内容が感覚的に掴みやすくて、わかりやすいものだった、と云うのがまちがいなくあったと思う。さらに、ご指摘のように聞き手にとって都合のいい内容であったことも要因として挙がるだろう(この種の聞き手にとっては、ほしいのは結論だけ)。そこに森昭雄氏のプロフィール(最近専門分野として「脳神経科学」が追加されたらしい)が権威付けをする。「脳波」と云うテクニカルタームが真実味を付け加える(森氏の云う脳波が、実験の結果脳波ではなく筋電図であったことがわかった、と云うことについては株式会社メディカルシステム研修所のサイトに“ゲーム脳”の脳波についてと云うタイトルで公表されている)。

現実問題として、この「わかりやすさ」はニセ科学に対する対抗言論にも要求されるものではあるのだけれど。ただ、話し言葉にしろ書き言葉にしろ、「わかりやすく」する作業にはどうしても宿命的に不正確さや虚偽が紛れ込むものであって。たとえ話・寓話の類については本来そのあたりが前提として置かれているのでまだ問題は少ないにしても、現実に比喩やたとえを言葉そのままに解釈するような短絡は(実際のニセ科学の現場でも)まま見られることではあったりするしなぁ。

ぼくの知っている範囲でも、例えば菊地誠は難しい話をわかりやすく伝えるのがとてもうまい(早口ではあるかも)。でも、その彼の言葉でさえ、現状伝聞の過程を通して誤解を生むことがある。ニセ科学にまつわる言説と違って基本的にそのなかに虚偽をまじえることは避けるべき、と云う部分があるので、どうしてもわかりやすさ、と云う部分で遅れをとる(この辺ニセ科学は非常に有利だ。そもそもうそなので、正確さに配慮する必要がいっさいない)。このあたり、菊池教授が「ニセ科学にはマーケティングでは勝てない」と云う言い方をする所以ではあったり。

ちなみにこのあたり、「誰に語るのか」と云う部分とも密接に関連してくる。とか考えると、亀@渋研Xさんが細胞に意思/意志がある?と云うエントリのなかで考察していらっしゃるところとも関連してくるんだろうな、とか思う。