Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

あしがかり

uumin3さんのあるがん患者の非合理な判断と云うエントリを読んだ。言及されているNHKスペシャル「さまよえる がん患者」については未見なのだけれど。

 マクロな視点から見れば、Tさんの行為はほとんど医療リソースの無駄遣いに近いものだと思います。ただTさん本人の視点で見れば、かけがえのない自分の命のために尽くせる手は尽くしたい…という合理性を越えた判断になるのはまた致し方ないことなのではないかなとも感じました。

これは当然だ、と思う。そこで科学的な合理性だけをたてに「あなたの望むことは実現できません」と云うことを呑み込ませるのは難しいし、自分のためにできることをしたい、と云うTさん本人がどのような行動を選ぶか、が「それが不合理である」ことを理由に制限されるべきではないだろう。このTさんの行動に対して、マクロな視点から見た基準をひとしなみに適用して非難するのは、妥当ではない。
ただし同時に、ここでTさんが望むような医療を提供しなかった医療機関がそれゆえに非難されるべきだ、と云うことにもならない。その判断が適切であるなら。

そうすると、その判断が適切であるかどうかをなにに基づいて評価するか。個人の合理性を越えた判断を最優先しない医療機関の行動を、適切であるとみなすことははたして可能なのか。

医師がある患者に対してある療法を選択する。その療法が成功して患者が生存する確率が50%だとする。失敗したときに、その医師は責められるべきか。
もちろん、家族は医師の責任を問うかもしれない。(この50%、と云う数字の精度は措いておいてもらうとして)50%も成功確率があったのに失敗したのは、医師の能力か努力が欠けていたのだ、と感じるかもしれない。社会的制裁がこの医師に与えられるべきだ、と確信することもあるだろう。

この家族の判断は不合理だ。不合理であるからといっても、この家族がそう云う感情を抱くことを止めることはできない。
では、この医師は責めを負うべきか。

その療法の選択が適切なものであり、また実際の医療行為においても瑕疵がなかったとすれば、もちろん責めを負うべきではない。では、そのことをどう判断するか。
遺族は医師の選択と施療が適切であったことを認めないかもしれない(それが実際にどのようなものであっても)。そして認めない以上、遺族が責任を問い続けることは可能だ。社会的制裁を求め続けることも。
ここにおいて、遺族の(その視点に基づく)行動をなんらかのかたちで退けることができない限り、原理的にすべての医療行為は不可能になる。

Tさんのような方に対して、その行動を非合理だからといって切り捨てることはできない。その意味で、代替医療を含めた医療行為の全体を自然科学の観点から見た技術的な側面のみから評価するのは難しい。そこにはほかの視点から検討されるべきもっとたくさんの論点が包含されている。

とは云え、それでも医療行為は自然科学を背景にしたものでなくてはならない。このへん、こう云う個人的な結論に至るまでにはけっこううだうだと考えてきた経緯があるのだけど(そのあたりは例えばこのあたりから辿れる)、要するにそれは医療行為においてひとの担いうる責任、と云うものを支えることができるのが科学だけだから、と云うことで。
これはべつに、科学がつねに真理を指し示すもの、だからじゃない。そうではなくてむしろ、科学がひとの「想い」の外に立った判断を提供しうる、と云う機能を持つことから来る部分のほうが、より重要だ(地下猫さんのエントリに便乗してこのあたりで書いたように)。

 この「納得できる」というのが、「合理性はともかくすがれるものは何でもやって希望をつなぎたい」というものなのでしたら、それこそ疑似科学的なものだろうがまじない、拝み屋さんの類だろうが患者さんに与えられるべき(>奪ってはいけない)ということになってしまうんじゃないだろうかと、そんなことを考えて番組を見ていました…。

最終的には、それは奪ってはいけないと云うことになるんだと思う。その部分を論じるために必要とされるのが、例えば愚行権、と云った概念なのか、それともなにかほかのものなのか、は措くとしても。それは最終的にそのひとの判断であり、そのひとの責任、と云うことになるので。それらに基づいた行動をする権利は、合理・不合理の判断のもとに否定されるべきものではないはずだ。

ただ、この観点からのみ見ると、この議論は素朴な自己責任論に帰結する。そのことの是非についてここで粗雑な論旨を展開するのは避けておくけれど、すくなくともぼくの生きていたい社会は、そう云う場所ではない。ぼくも、Tさんも、ひとりで生きてはいない。こちらのエントリで言及したコットンフィリカさんやIEさんにも、ぼくはつよいシンパシーを感じる。
効果の疑わしい代替医療を信じる患者と、それに接するコットンフィリカさんやIEさんのような立ち位置の方たち。それぞれの方の内心をつなぎ、整合性のある結論に到達させるのが必要なときに、足がかりにできるものはなんだろう。

米原万里さんは卵巣癌が発見されたときに通常の医療を拒んでいくつもの代替医療を試み、それらが奏功せずに56歳の若さで亡くなった。そのことを惜しむどなたかの文章を読んだ記憶がある(安原宏美さんだったかな)。
これは未読なのだけれど、彼女の絶筆となった書評集。

打ちのめされるようなすごい本

打ちのめされるようなすごい本

  • 作者: 米原 万里
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 単行本
 

後半は書評のかたちをとった闘病日誌のようだ。ぼくはたいしたファンではないのだけれど(それでも嘘つきアーニャの真っ赤な真実を読んだときにはめずらしくちょっと目頭にきた)、たとえばこのような事柄を、ぼくたちはどう受け止めればいいのか。

結局、科学的な視点から見て合理的である、と云うのは、それらの論点とそこにある要素を特定の文脈において適切に重みづけするのに妥当だ、と云う以上のものではない。ただ、ひとの心に単純に踏み込むのではなく、議論と判断において当座にしても信頼できる足がかりを提供することが原理的に可能なツールである、と云う点が、科学の重要な存在意義なんだと思う。