Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ホリスティック

TAKESANさんの全体・総体・システムと云うエントリを読んで、ちょっと思ったこと。コメント欄にもお邪魔してすこし書いたけれど。

ホリスティック、と云う概念は、ぼくはそれなりに重要だと思っている。

 

科学、と云うか学問にはいろんな分野があるし、それぞれの分野のなかにもいろんなアプローチがある。でも、それらは互いに独立したものではなくて、つながりの疎密はあっても互いに関連し合いながら、全体を構成している。ほかの分野との関わりがいっさいない学問分野、と云うのは存在しない。もちろん、個別の分野どうしの成果がある時点で整合が取れていない、と云うことはあるけれど、学問的追究は全体像のなかでその整合を求める方向に向かう。
そう云う意味で、学問と云うのは、総体としてはただひとつだ。文科系も理科系もなく。

で、それぞれの分野は、その総体のなかでの位置を持ち、重みを持つ。もちろんこの「総体」はつねに変容を続けているものなので、ある時点のスナップショットとして位置づけ、重みが明解ではない分野は存在するし、位置づけが移ることも随時ありうる。でもそれは、あくまで「総体」のなかでの変化で。
分野同士でつねに新しいパスはつくられているし、また存在すると思われていたパスの消失も随時発生している。でもそれは、その分野において独立して生じている事象じゃなくて、あくまで総体としての変化のなかで生じていること。

総体がどうなっているのか、をディテイルにわたってそれこそホリスティックに把握するなんて云うことは、対象があまりに巨大なので、たぶん誰にとっても難しい。ましてやぼくなんかみたいにアカデミズムの外にいる人間からすれば、せいぜい自分の角度と切り口から、いくらかでも馴染みのある分野を入り口にして全容をうかがう、みたいな辺りがせいぜいで。
でも、生活人としての場所からそこに「総体」があることを意識することが、ホリスティックに考える、と云う云い方をぼくが使う時の意味だったりする。

どうもニューエイジ的な発想において使われる「ホリスティック」と云う言葉は、意味が違っているように思う。「水からの伝言」にしろゲーム脳にしろEMにしろ、どうにも本来の総体から自由、と云うか分野同士に得手勝手なパスを張って、それをなにかしらの雰囲気でくるんで独立した「総体」を主張する、と云うような代物で。
そこにはいろんな学問分野の知見がパーツとして組み込まれているかも知れない。でも(疎密はあっても、また常時変容しているとしても)総体のなかで本来持っている体系のかわりに「善意」とか「いい話」とか「信じることのすばらしさ」とかそう云うもので結合されているから、個々の要素を検討することで裏にある恣意を透かしてみることができる。その裏面に、特定の意図が存在することを見て取ることができる。

結局のところニセ科学を提示する側、それを受け入れる側が「信じて」いるのはその「意図」で、それを呑み込ませるためのガジェットが、この場合は科学と云う装い、と云うしくみになるわけで。

そこにあるなまの「意図」を信じるのは、基本的には自由なのだと思う(社会的な制約はもちろん存在すると思うけれど。そして、その制約の範囲については別の議論がある部分だと云うことは分かっているけれど)。でも、ガジェットに糊塗された状態にある特定の「意図」を、そのむきだしの姿を理解せず把握しないまま呑み込むこと、意識できない状態で「信じる」ことは、あきらかにひどく危険なことだ。