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科学と行動規範

qarmilさんの似非科学だと批判しているだけでは行動模範が得られない。と云うエントリを読んだ。

似非科学だと批判しているだけでは行動模範が得られない。行動模範というのは、「何をすべきか」、「何がしたいのか」などのことである。だから、目的に応じて何が必要なのかを考える必要がある。何故なら、すべての人が科学的な知識を絶対的なものであると考えているわけではないのだから。

なんと云うか、まったくおっしゃるとおりではあると思う。科学は最終的には個々人の行動規範は与えてくれない(と云うか、そう考えるとひどくあやういことになる)。 ただまぁ、行動規範を策定する際に使用するツールとしては、けっこう有用であるのは事実だと思う。
qarmilさんはこのエントリのふたつ前の科学とそれ以外の考え方についてと云うエントリで、僕は、「科学は事象をうまく説明できる道具」だと考えている。とお書きになっている。たしかにこの考え方に準拠すれば、この事象をうまく説明できると云うことについての捉え方次第では、ニセ科学と科学のあいだに選ぶところはなくなる(極論すれば「うまく説明できていると『信じれば』すむわけなので)。

ただ、その「うまい説明」を共有したり、それに基づいて個人の行動規範以上のものを策定しようとしたりすれば、そこにはいろいろと問題が生じる(例示はしなくてもいいよね)。そこのところを回避するのに科学の考え方は有用で、なぜ有用なのかについてはこちらに書いた。
その意味で、

もちろん、信じたくない解釈であれば信じなければいい。でもそれは、科学にもいえること。どんなに科学的な手法を用いて説明しても、説明しきれない部分が出てくる。その部分は近似値として信じるしかない。

これは多少違っていて。どちらかと云うとぼくら非専門家にとっては、科学については(支払えるコストの範疇で)疑えるだけ疑うべきで、でもうこれ以上疑えない、と云う時点で信じるのが本来は望ましい。いや実際のところ疑うのはたいへんなので(勉強したり、思考力を費やしたりしなきゃいけないし、そもそも疑うこと自体に資質が必要になる場合も多いし)、そう云う場合にはひとまず「科学のしくみ」を疑うことでも当座は代用できる。そうすれば、「ここまでは信じられる」と云うのが掴める(同じことは、ニセ科学に対しては不可能だったりする)。定義じゃなくて、しくみ。

ところでこの方が似非科学と云う言葉をお使いのときに念頭におかれているのは心理学みたいなんだけど、心理学自体はふつうに科学だと思うけどどうか。精神分析や分析心理学なんかについては、それこそ反証可能性の部分でニセ科学として捉えられることも多いけど(ぼく個人は、それでも分析心理学なんかについては有用性とかを否定できないんだけどね。「育ちの問題」とか「地元の文化」に類する個人的な部分で)。