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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

蕎麦屋で呑む

つれあいが出掛けてしまって夕食がひとりになったので、近所の蕎麦屋に呑みに行った。

蕎麦屋で呑む、と云う行為に漠然としたあこがれのようなものがあって。いや、蕎麦屋で食事するときにビールを頼んだりとか、そう云うことは何度もしたことがあるんだけど、呑むために蕎麦屋に行く、と云うことはしたことがなかったと思う。で、なんであこがれがあるかと云うと多分池波正太郎だの杉浦日向子だのを読んでくっついてきたイメージ、と云うだけなんだろう。いつもながら(われながら)軽薄と云うかミーハーと云うか。

でまた、こう云うときにわざわざ雑誌に載っているような(蕎麦屋を雑誌が紹介する機会がなぜか増えている気がするけれど)店に出かけるのは、なんだかひどく野暮ったい行為のように感じる。いや、旨いと云われている蕎麦屋にわざわざ食べに行く、と云う行動はべつだん野暮な気はしないのだけど、でも「呑みに行く」と云う意味合いを持たせようとすると、どうも「探す」とか「選ぶ」ことそのものが軽みを奪うと云うか、変に行為そのものを重たくする気がする。そんなもの気分の問題だって云ってしまえばそれだけなんだけれど、それを云えば「蕎麦屋で呑もう」と云うことそのものが気分の問題なので、そんなわけでこの場合に限ってはなによりそれが重要なわけだ。

そう云うわけで、出かけた先はうちのはす向かいの蕎麦屋。けっこうな老舗のはずだけれども大仰さもこだわりもない、まぁなんと云うかふつうにくたびれた街の蕎麦屋。ちなみになぜかうちの近辺の老舗(なにしろ400年前から同じ町名を名乗っている土地なので路地裏の老舗的な店がそこそこある)は突拍子もない大胆な新開発メニューを置いているところが多くて、ここも例に漏れない。そんな店。
老舗らしく閉店が早くて、これまでここで酒を呑んだのは大晦日の晩だけ(さすがに大晦日だけは遅くまでやっている)。ちゃーんす、みたいな感じも少しあったりして。

 

まずはビールかな、とか思ってメニューを見ると、国産5メーカーのうち4つの銘柄が並んでいる。これは珍しい(5つ全部並んでる蕎麦屋は多分うちの国にはないだろう)。まぁ考えるでもなくヱビスに決めて、肴を探そうとすると、メニューに「おばんですセット」と云うのが載っている。肴セットみたいだ。210円。板わさとか蕎麦屋にありがちなものがメニューに見当たらないのでそれも頼む。

ヱビスが来る。居酒屋のお通しっぽく山菜おろしとキュウリの漬物、あとビールの付属品っぽく柿ピーが来る。うむうむ、とか云って呑み始めると、焼き茄子が出て来た。おぉ、とか思っていると春菊と茄子の天婦羅が登場。なんだこれ採算取れるのか。茄子がかぶってるけど好きだし、焼き茄子と天婦羅ではまったく違うものなので文句はない。ぜんぜんない。しかしこれではビールを呑むより肴を食べるのに忙しい感じだ。もちろん不満はない。あるわけがない。

ひどく贅沢な気分でビールを呑んで、お店のお姐さんを呼んで蕎麦を頼む。ここはもりとざるの価格差が20円と云う非常に説得力のある価格設定なのでざるを頼む。ここで温かい蕎麦とか種物を頼むと「呑みに来た」気分が削がれるような気がしたのもある。あと冷や酒を1合。
酒が先にくる。ただの街場の蕎麦屋なので酒の銘柄なんてメニューに書いてなくて、単なる「冷や酒」なんだけれど、呑んでみると甘みが薄くてそこそこ旨い。居酒屋で日本酒を呑むときにはいくらでもうるさいことが云えるのだけれど、このシチュエーションではそれはひどく野暮に思える。自分の街で、身の丈で呑んでいるわけだから。
ゆるゆる呑んでいると蕎麦が来る。ここの蕎麦は昨今仙台でもそこそこ増えている田舎蕎麦系じゃなくて、もっと細くて更級寄り、みたいな仙台の地場の老舗に多い感じ。呑みながら、江戸っ子だったらなにか云われそうなペースでのんびり食べる。ここは江戸じゃないのでいいのだ。あんな3枚とか食べないと食べた気がしないような無用にお上品な盛り方でもないし。でもひさしぶりに食べるこの店の蕎麦は意外と甘みが感じられて旨かった。

とまぁ、正直云うと気取り過ぎていて自分でも気味が悪いのだけれど、蕎麦屋で呑むのは楽しいのだなぁ、と云うだけの話。呑みながら東海林さだおを読んでいたので、なんか書きたくなっただけでした。