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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

うそと幸福

ajtptwtptjaさんのニセ科学論議の違和感概要と云うエントリを読んだ。これはhietaroさんの思い出話とかと云うエントリに言及した内容で、これについてはhietaroさんがRe: ニセ科学論議の違和感概要と云うアンサーエントリをリリースされていて、TAKESANさんも批判の仕方の話と科学的方法に関する話と云うエントリで触れられている。
で、TAKESANさんのほうのコメント欄で少し書いたことなんだけど、ajtptwtptjaさんのエントリのなかで、以前からけっこうひんぱんに見かけて気になっていた論調があったので、そこだけちょっと。

科学的態度とは、たぶん「正しい」ということを見つけ出すために推奨される方法論だと私は思っているのですが、そこの認識は間違ってないでしょうか?

この方がお使いの「正しい」と云う言葉の意味がよくわからないので、ご認識が間違っているかどうかはなんとも云えないのだけれど(正しさと云うのは限定なしで使うにはちょっと幅が広すぎる概念だ)。とりあえず「すべての場合における真理」と云うのを想定されているとしたら、たぶん間違っていると思う。

要するに、「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」ってことは、科学的態度を広く啓蒙していく上で重要だと思うんですが、そのあたりについては最近はどういう議論になってるんでしょうか?

この部分もこの部分で人間として幸せになると云うことがどう云うことなのか、と云う定義の仕方でいろいろと議論が分かれる部分なんだろうと思うけど、こっちこっちで触れたようなことは(本人たちがどんなに人間として幸せを感じていても)やっぱり悲劇だと思う。そこについて「でもやっぱり本人たちがそう感じてるから(死んだ子供も含めて)人間として幸せなんだ」とお感じのようなら、たぶん感性の違いなので意味のある議論は難しいだろうけど。

むしろ最近「ニセ科学」とはてなでは喝破されているような本が売れて=日本社会では効用が高くて、何らかの「人間的幸福」に事実として寄与しているように見えるのですが、そのあたりについてはいかがでしょうか?

話は飛ぶようだけど、あえて科学の話題から離れて。

1997年にアルバニアで大流行したねずみ講はそれを主催した投資会社のひとたちの「人間的幸福」に寄与していたと思うし、多分出資したひとも(破綻までは書類上預入金額は増え続けていたらしいので)それなりの期間「人間的幸福」を感じていたんだと思う。結果がどうなったか、と云うことはもちろんあるわけで、そう云うレベルのお話なんだろうと思うんだけど、どうか。
アルバニアの人たちがねずみ講についての知識を持っていれば、被害総額がGNPの3割にまで達し、外国の介入を仰ぐまで無政府状態が続く、みたいなことはなかっただろう。いやもちろん、そんなことは「人間的幸福」とひきかえにはできないささいなことかもしれないけど。

極論だって? もちろん。日本じゃせいぜい円天騒動くらいしか起きないかもしれないよね。たいしたことじゃないのかも。ぼくはみんなが円天にひっかかって損をしたりせずに済む世の中のほうが暮らしやすいと思うけど。

うそも方便、って言葉があって。で、うそがひとに(本人がどう感じるか、と云うレベルでの)「人間的幸福」を与える、と云うことはまぁ起きるだろう。でも、それはうそを全面的に容認することじゃないと思う。一般的に云って、そうやって一部の効用のためにうそを容認することは、それ以外のいろんな側面でのコストを(社会的な部分にかぎって考えても)大きく引き上げる、と云うことになるわけで。方便、としてのうそは、その辺のリスクを認識して注意深く使うことを前提に、はじめて容認されるのだと思う。
つねに一面的に役に立つとは限らないからって、科学もうそと大差はない、みたいな考え方は裏返しの二分法だ。

(とか書くと、「おとぎ話とか寓話はどうなるんだ」とか言い出すひとがいるんだよね。その辺についてはもう何度も書いたので本日は省略)