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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「結論」と「考えること」

こちらのエントリで言及したココロ社さんのエントリ関連で、くろはじめさんのニコニコ社と水伝と云うエントリを読んだ。

 

ココロ社さんのエントリについては、それに触れたなんばりょうすけさんのエントリを通して、「結論に至るまでにどう考えるか」と云うところがオミットされているんだ、と云う理解に達した(ちなみにこのエントリに関しては、NATROM先生のはてブコメが秀逸)。
でまぁ、考えないで結論を先に置く(しかもその結論を疑わない)とどう云うことになるかと云うと、たとえばくろはじめさんのように、

水伝を信じてる人の頭の中
道徳>>科学
水伝を信じていない人の頭の中
科学>>道徳

とか云うことを書いてしまうことになる。たぶんこの方は、例えば菊池誠教授の「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけとか、田崎教授のマスターピース「水からの伝言」を信じないでくださいのなかのこの話が授業で使われたって、どういうこと?なんて文書は読んでいないからこう云うことを平気で書けるわけで。少しでも「結論」を書いてネットに晒してしまう前に「考えて」いれば、ちゃんと調べて自分の「結論」がどれだけ妥当なのかを理解できるだけの材料はたくさん転がっているのにな、とか思うのだけどどうだろう。

この方は以前にも【独り言】kikulog考と云うエントリをお書きになっていて、そちらでは、

いわゆる「科学原理主義者」(勝手に命名)とよばれてもおかしくないと思う。 kikulogは、子供に見せるのには問題あるかなと思う。たしかに、科学的に間違ってるようなことは全然ないけど、内容がどうかなと思う。たぶん、本人が仮にこのBlogの内容を読んだとしても、書いている意味さえも分かってもらえないと思う。

なんてことを述べてらっしゃる。「kikulog考」と云うエントリのタイトルにも関わらず、この一連の文章ではたてつづけに4回もってらっしゃるだけで、とくに何かを考えている(そうして自分の考えを読む人間にも伝わるようにちゃんと根拠づけしようとしている)様子はない。たぶんきっとこの方と感性が共有できる方には通じるのだろうけど、それってずいぶん高いハードルを設定しているよなぁ、なんて感じる。

ココロ社さんのエントリには見事な芸を感じるし、エントリ単体で書かれていることもまぁ妥当に云える場面は頻繁にあるだろう。でも、こう云う方にまで「考えない」ことについてのエクスキューズを提供している可能性まで考えると、そこそこに罪深い、とは云えるんじゃないだろうか。