Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

空気

3/24追記: このエントリは黒影さんのエントリを読んでぼくが感じた、まぁおのれにできることのわずかさについての愚痴のようなものです。
トラックバックlets_skepticさんにご指摘いただいたように、黒影さんはScience For All Americans翻訳プロジェクトの主催を通じて、理科教育の充実に向けた実践を行っておられます。その点で、ここにぼくが書いた内容はぼくが代表するような、実効性のあるなんらかを実践するリソースを持たない人間についての内容であるとお読みいただければ幸甚です。

黒影さんが山本七平「空気」の研究についての書評としてお書きになった疑似科学と「空気」の研究と云うエントリを読んだ。

「『空気』の研究」についてはここのコメント欄のどこかで技術開発者さんも言及されていたと思うんだけど、現時点で未読。と云うか個人的な話になるのだけれど、読むのを回避していた部分も多分ぼくにはある。それが山本七平と云う評論家に対する先入観なのか、日頃から「空気」の暴虐さに人一倍おびえて暮らしているぼく自身の性向によるものなのか。あまり詳細に考えたくはないあたりではあるのだけれど。
ただ、いろんな引用を通じてなんとなく内容は把握していて。

しばらく前に「疑似科学批判批判」であちこち盛り上がっていたことがあったが、あの時の疑似科学批判批判者のピントの外しっぷりは、山本七平が指摘するこの思い違いに完全に重なるものがある。まあ彼らの意識する『科学』が受験勉強型速成教育に毛が生えた程度のものであり、また大槻教授のように未だに明示啓蒙主義的な疑似科学批判を繰り広げる人間もいる以上、完全に的外れというわけでもないのだが。それに疑似科学批判者の側も、批判批判者の科学認識のずれをきちんと捕捉できていない場合が往々にして見受けられるので、相互理解という点ではある意味おあいこかもしれない。

まぁ概ねの疑似科学批判批判は誠実な思考の結果としてピントを外しているわけではないと思うのでそのあたりまるきり同意とは云えないにしろ、このあたりの黒影さんの指摘は、まぁ、正当なんだろうなとか思う。ぼくなんかはいちいち実例に即さないとずれをきちんと捕捉できない場合が多いわけだし。この辺例えばNarrさんの一連の考察(批判批判関連記事一覧と云うエントリから辿れます)なんかからお知恵を拝借して都度補ったりしてるわけだけど。
で、結論として提示されているなかのこの一文が、一面ぼくなんかの悩ましさとつながる。

しかしビリーバー達は、通常その世界が虚構であることに気が付いていないし、気が付きたくもないと思っている。なぜなら往々にしてその虚構は彼らの心の拠りどころであるからだ。ゆえに彼らは、その虚構を壊そうとするものに対しては、激しい拒絶を示すし、どれだけ事実を突き付けられたところで、決して態度を変えることはない。それを認めてしまえばそれまで自分が安住してきた虚構の世界が崩壊してしまうからだ。そして、それを認めず目を背けさえすれば、とりあえず彼らの虚構は保たれるのである。

そしてその彼らの虚構を崩すべきなのか、崩すとすればどんなやり方で崩すべきなのか。例えばぼくがもっとも望ましい着地点と考えている(おそらく多くのニセ科学批判者の方々もプライオリティの違いこそあれ大枠は同様だと思うけど)「虚構は虚構としてふさわしく尊重し、それに過剰に力を与えたり支配されたりすることなく適切に処遇する」と云うあたりに落ち着かせることは、どうすればできるのか。黒影さんはこのエントリの中盤で、

現状を改善するためには、科学リテラシー教育に合わせて人間の心の性質についての教育、特に日本人の心のありようの特性についての教育を、義務教育レベルでもっと行う必要があると私は考える。

とお書きになっていて、そりゃまぁそれはごもっともだよな、とかは思うけれども現状そこに何らかの方法で直接アプローチできるかと云うと難しい。ほら、教育に関する議論なんてえらいひとたちからぼくらみたいな下々のものの間で交わされるものに至るまで、結局徹頭徹尾「空気」でしか行われていないわけだしね。
でもってこの話っていくつかの部分でこちらのエントリで触れたようなこととも関わってくるよなぁ、みたいにも思ったりするのだった。