Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

音楽の(持ち得ない)力

ここここで言及したmoharizaさんが、その後、「水伝」について考えたことと云うエントリをお書きになっている。なにかそうとう悩ませてしまったみたいだし、トラックバックも送ってきてくださっていないので言及しないほうがいいのかも知れないけど、なんかそれも無責任な気がするのでトラックバックせずに言及。全体にちょっと手短に。

それはそれとして、

「水伝」及び「ニセ科学」についてのブログ記事は、その後、機会があるごとに読みましたが、きくちさんを初めとして、様々な方が議論をなされ、全てを読みきるまでは行かず、途中からその議論に付いていけない部分がありました。

とおっしゃっているのは、最近けっこう問題として上がってくる部分ではあるよなぁ。ここのサイドバーからのリンクは、こう云う方々に対するレスポンスの試みとしてはどれも労作だと思うけど、さて。

物事において、「人間の発見(見出した)した理論(原理)は、人間の世界(3次元と云う限られた世界)のみにか通用しない理論ではないか?」とする疑問が、常に付きまとっている人間でもあります。

ここら辺が、Poohさんを初め、Poohさんのブログへの投稿の(「水伝」及び「にせ科学」を糾弾している)方々と、同じ<論理的>考え方であっても、かみ合わないところのような気がしています。

この部分、端的に云うと「文脈の違い」と云うのをお考えいただくと解決するのではないかと思う(前にここのコメント欄でFREEさんも推奨されていたけれど、このあたりを考えるのに内容的にも価格的にも最適な副読本は伊勢田さんの哲学思考トレーニング だと思う)。

意味が時代によって変わっていく言葉でも、その発音された言葉に込められた、当時の人間の「感情の響き」は、(その音が現代に残っていればとして、)現代でも伝わると思います。

これはその音が現代に残っていれば文脈が通じうる、と云う話ではないだろうか。と云うか(個人的な経験なのでなんなのだけれど)ぼくは以前に言及させてもらったエントリで、復元された古代ギリシャの音楽からなにひとつ受け取れなかった経験を述べているのだけど。

但し、水に溶け込んでいる微生物等が、「音楽」に何らかの形で反応し、「結晶化」に関与することは考えられなくもありません。

これはまったく別の文脈ではないだろうか。仮にそう云うことがありえたとしても。
人間にとって心地いいものが、微生物にとっても心地いいとは限らない。それをぼくはやっぱり指摘させていただいているのだけれど。人間にとっていい結果は微生物にもいい結果だ、と云うことが<論理的>に云えるとお考えなのか。

よって、音楽(音)の反応において、「水の結晶」化については、私なりの考え(理論)では解明できない部分がありますが、しかし、液体としての「水」(水分子)の音楽(音)への反応については、全否定することは出来ません。

この部分と、音楽としてすぐれているかどうかの判断とはつながっていない。つながっているといいな、とお考えなのだろうとは思うけれど。

<今まで人間(科学者)が築き上げた物理理論を否定することは、有ってはならない>ことなのでしょうか?

もちろんそんなことはない。ただ、科学の体系の大半を無条件に受け入れて、直感的にちょっとひっかかる点だけ異論を唱えてみる、と云うスタンスはあまり<論理的>とは云えないと思う(ぼくを含め大半の人間の暮らしが、ほとんど無条件に科学の体系を受け入れることで成立している、と云う点に関しては、ここここで述べた。それがいいことかどうかはともかくとして、その点に目をつぶって都合のよい部分だけ「素人の直感」を重視するのは、筋が通っているとは云えないと思う)。

・人間が考え(見つけ)出せる<完璧な理論>が果たしてあるのでしょうか?私は無いと思っています。

<完璧な理論>でなくとも、「いま使えている理論」はあるわけで。で、moharizaさんが否定しようとしているのはその枝葉ではなく、幹の部分になるのだけれど。